近況コラム



2002年元旦号

Tarchanより新年のご挨拶

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 新世紀になってはや二年目。 そしてこのHPも来月で開設以来6年目に入ろうとしています。 アクセス数もおかげさまで60万件を超えるまでになりました。 ここまで来れたのもHPを見てくださっている皆さんのお力添えがあったからこそだと思います。 ここに慎んで新春のお慶びとともに御礼申し上げます。


今わたしがやるべきこと

 早いもので、わたしが東大受験を決意して2年以上の月日が経ちました。 その間にも多くの皆さんからの暖かい応援メッセージを頂き、わたしとしては感謝の気持ちでいっぱいです。
 しかし、残念ながら今年もまた受験は見送る方針です。 何よりもまだ学資金のメドが立っていないこと、そして仕事やHPの管理などで殊のほか忙しく、学力が思ったほど上がっていないのが現状だからです。

 しかし、不思議なことにわたしは全く焦っていません。 なぜなら、わたしにとって大学での研究はあくまで最後の切り札にすぎないからです。
 わたしには、フリーの今こそしておかなければならないことが山ほどあります。 それは受験勉強をしていては決して学ぶことの出来ない本当の知識や経験であり、それによって人間関係はもちろん、世の中のいろんなことを学び、本をたくさん読んで、世の中の人たちは本当は何を望んでいるのかを知ること、そして来るべき新たな時代を自分自身の手でどう作っていくのか、そこでよりよく生きるためにはどうすればよいか、という確かな知恵を身につけることです。 これが今のわたしに課せられた第一の使命であると考えています。

 わたしは実際のところ、まだサナギの状態です。 しかし、サナギはじっとしているように見えても、殻の中で体は確実に変化し、徐々に成虫になるための変身を遂げているものです。
 わたしが人々に訴えかけようとしていることは、その理論と同様に、極めてゆっくりと効いてくるものであることも自覚しています。 今はまさに心と体の準備をする時でもあるのです。

 きっと運命の女神がわたしに貴重な時間を与えて下さったのでしょう。
 『あなたはまず今やるべきこと、今しかやれないことをやりなさい。 もちろん辛いこと、悔しいこと、悲しいこともあるでしょう。 そして自分ではどうすることもできないこともあるでしょう。 しかし、悲しみの涙はあなたには似合いません。 わたしは何よりもあなたの明るい笑顔を見たいのです。
 そして何か不安や絶望を感じたら、一度立ち止まってじっくりと腰を落ち着けて考えなさい。 一度に多くの前進を求めてはいけません。 少しずつ、しかし確実な一歩を求めなさい。 立ち止まることも、じっくりと考えることも、それぞれ勇気ある立派な行為なのですから。

 今まで見えなかったものが見えるようになる時、今まで自分にとって縁遠いものと思っていたものが、実はそれこそ自分が本当に望んでいたものであったことを悟る時、今まで自分が親しみや安らぎを覚えていたものが、実は自分に不幸をもたらす元凶であったことを思い知る時、これらはいずれも、立ち止まっている時、じっくりと考えている時に訪れるものです。
 そのうちきっと道は開けます。 そして世界は変わります。 それを可能にするのは、まさしくあなた自身の意志の力なのです。

 わたしにはあなたのひた向きな情熱がよく伝わってきます。 いや、むしろそのひた向きさこそ、あなたの最大の魅力なのであり、多くの人々に生きる勇気や幸せを与える源といっていいでしょう。 時にそれが裏目に出ることがあっても、わたしはあなたの運命を決して見捨てたりはしません。
 わたしはいつでもあなたを暖かい目で見守っています』
と・・・。




第13版 [2002年9月16日 第12回改訂]

2002年・新春特別コラム

〜新世の日本人として2〜

『天下布美』 の誓い
─愛と信頼と美の世界を作るために─

去年のわたしの収穫 ─岩月教授の本との出会い─

 去年のわたしにとっての教養面での最大の収穫は、何といっても香川大学教授の岩月謙司氏の本との出会いでした。 氏は以前から雑誌やTVなどで活躍されており、「家庭内ストックホルムシンドローム」 「思い残し症候群」 「幸せ恐怖症」 といった新しい概念を次々と打ち出し、人間行動学や心理学の分野に新風を吹き込んだ人として知られています。
 わたしもある日TVで拝見し、その新しい言葉の数々に興味を抱き、早速本を購入したところ、今までわたしが漠然と抱いていた人間関係に関する疑問、とりわけ親子関係に関する疑問が一気に氷解した思いに囚われました。 そして、人間というものに対する評価の仕方を一変させました。
 なぜ、わたしが十代半ばから二十代後半にかけて極度の人間不信に陥ったのか、なぜあれほど家族から逃れたかったのか、なぜ自分の嫌いな人間に対してはむしろ嫌われまいとすすんで尻尾を振り、自分に好意を寄せてくれる人間に対してはむしろ冷淡な態度を取るような行動に出ていたのか、そうしたすべての疑問が岩月教授の明快な理論によって一気にひも解かれる思いがしました。

 実際、わたしは教授の全著作を読んで、自分が今までよりも数段パワーアップした感じがしました。 これほどまでに他人が書いた本にのめり込んだというのは、かつて無かったように思います。
 そうした心の中の勉強し直した部分、鍛え直した部分を、これまでのわたしの人生の中で得られた自分独自の哲学を織り交ぜながら皆さんにお伝えすることは、わたしという人間を知ってもらうためにも、新しい世界を作るためにも、極めて有意義なことだと思っています。

 岩月教授はその多くの著書の中で注目すべき概念の数々を提出されています。 その中でも、特にわたしにとっての最大の収穫は 「信頼関係と契約関係」 の違いについて目を開かせてくれたことでした。 このことは商業の起源の謎の解明に大いに役立つものとなりました。
 以下に述べることは、受験勉強をしていては決して得ることの出来なかった、わたしの心の修行の最新の成果です。 どうぞ最後までお付き合い下さい。


信頼関係と契約関係の違い ─与え尽くしの愛と見返りを求める愛─

 この世には二つの種類の愛が存在します。 『与え尽くしの愛』 と 『見返りを求める愛』 です。
 『与え尽くしの愛』 とは次のようなものです。 すなわち、

 「あなたが生きていてくれるだけで、わたしはうれしい」
 「あなたがわたしを愛してくれるかどうかに関わりなく、わたしはあなたを愛します。 たとえあなたが世界中を敵に回しても、わたしはあなたの味方です。

という愛。 これが与え尽くしの愛です。
 人を愛するとは、究極の自己肯定です。 あらゆる悦びの中でも最大のものです。 人は愛されることももちろんうれしいですが、愛することの方が数倍の悦びを得ることができます。 だから見返りはいらないのです。
 一番分かりやすい例は、母親が授乳の際に子供に無条件に注ぐような愛情、すなわち無償の愛です。 そこでは決して見返りを求めたりはしません。 まさに与え尽くしなのです。

 このような愛情深い親に育てられた子供は、愛情をたっぷり詰め込んだ優しい子供に成長します。 その表情にも優しさが滲み出てとても可愛らしく映ります。 そのため、ますます人から愛されて、ますます愛らしい子供になります。 こうして、親以外の人間から愛を得るすべを自然に学びます。 このことが社会へ出てからの大いなる自信と安心感をもたらすのです。
 また、男女の間でも与え尽くしの愛があると、すべてが良い方向へと進みます。 お互いが励まし合い、お互いがお互いの幸せを願い、お互いがお互いの悦びを高め合うようになります。
 こうしたお互いの良い所がどんどん引き出されていく関係を 「ポジティブフィードバックの関係」 といいます。 岩月教授の言葉を借りるなら、「わたしもうれしい、あなたもうれしい」 の関係です。 そこでは悦びがベースとなっているので、生きる意欲が失われることがありません。 まさに愛と信頼と美によって結ばれた永遠の関係なのです。

一方、見返りを求める愛とは、条件付きの愛です。 つまり、

 「わたしがあなたを愛するから、あなたもわたしを愛して欲しい。」
 「あなたがわたしを愛してくれるなら、わたしもあなたを愛してもいい」

という、どちらかが愛を出さなくなったらそこで終わってしまう関係です。
 人は親から拒否的に育てられたり、愛され足りなかったりすると、このような契約関係的な世界観を持つようになります。 また、悦びを対等に分かち合おうとする関係ではないので、必然的に上下関係が発生しやすくなります。 こういう場合、家庭では親が絶対的な支配者となり、子供が奴隷役となります。

 このような環境で育った子供は、親から愛されるために、自分の本当の欲求というものを考えず、親が気に入ることを第一に考えて行動するようになります。 無償の愛というものを最初から与えられていないので、そのような愛が存在することすら知らずに育ちます。 そういう愛が存在するらしいということが次第に分かってきても、決して信じなくなります。 無償の愛をもらっても、何か申し訳ないような感じがして、すぐお返しをしたくなります。 また、自分に何か見返りを期待しているのだろうと、その裏を読もうとします。
 こうして、どんどん無償の愛から遠ざかっていきます。 むしろ見返りを求める関係の方が親しみを覚えるようになります。 また、親以外の人間からの愛の調達方法が分からないので、いつまでたっても愛のない人間から愛をもらうことに執着します。 自分自身の幸福をとことん追求しようとしないので、他人の幸福が許せなくなります。
 こうして周りには 「わたしもつまらない、あなたもつまらない」 の関係しか残らなくなります。 友人関係も、恋人関係も、果ては結婚してからの夫(妻)との関係に至るまで、すべて見返りを求める契約的な関係か、あるいはお互いを当てにしながらも心の奥底では信じていないという相互不信に基づく依存関係か、または 「見下し」 や 「哀れみ」 という優越と同情の入り交じった上下関係によって成り立っていくようになるのです。

 このような条件付きの愛(契約的な愛)は決して悦びをもたらさない関係です。 お互いの不信がベースとなっているので、大変息苦しい関係となります。 お互いがお互いの満たされない愛を確認し合うだけで、何らプラスの感情が湧いてこない関係、むしろお互いのエネルギーを吸い取り、お互いの神経をすり減らしていく関係です。
 実際、このような刹那的な関係の中に生きていると、人間は早く老けてきます。 ここから 「寿命」 というものが発生するのです。(なお、寿命については後述します。)

 現代社会は、まさに 「見返りを求める愛」 が中心となっています。 契約の観念に基づく人間関係といってもいいでしょう。 こうした契約に基づく関係が発達すればするほど、与え尽くしの愛は徐々に行き場を失い、殺伐とした人間関係だけが残ることになります。 たとえ関係が出来上がったとしても、すぐに終わってしまうことが多くなります。 電車でたまたま隣合って座った二人の関係と大して変わらないのです。
 実際、今日の児童虐待の問題も、親自身が無償の愛を自分の親からもらっておらず、その結果、自分の子供にも無償の愛が出せなくなってしまったことにその原因があることは間違いありません。 子供が泣き止まないだけで、すぐに暴力を振るったりするのも、そうした理由があります。 人は、自分がしてもらっていないことは、他人はおろか自分の子供にさえも、できないものなのです。

 なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。
 それを解明するためには、契約関係がどのようにして始まったのか、そして、契約関係の典型ともいうべき商業の起源を知ることがどうしても必要だったのです。
 以下に、そのひらめきを得るまでの過程についてお話ししたいと思います。


商業の起源に関する発見

 わたしは昔から、「なぜ人は欲しいものを手に入れるのにわざわざ物々交換したり、お金を払ったりしなければならないのだろうか」 と疑問に思っていました。 欲しがっている人がいれば何の見返りも求めないで遠慮せずあげれば良いし、自分が何か欲しい時は遠慮せずもらおうとすれば良い。 また、自分が相手にあげる気がなければそれはそれで良いし、相手も自分にあげる気がなければそれはそれで良い、それが人間の本来有るべき姿であり、自然な姿である、とずっと考えていました。

 しかし、こうした疑問を抱き続けてきたものの、肝心の 「なぜ人類は商業を始めるようになったのか」 ということがいまだよく分かりませんでした。
 なぜわたしがここまで商業の起源にこだわるのかといえば、これが分からない限り、人類を根本から変えようがないと常々考えているからです。 新しい世界を建設するにあたって、商業をどう捉えるかという問題は、どうしても避けて通ることのできない根本的な問題なのです。

 ところで、商業の起源が物々交換にあることは、よく知られていることです。 では物々交換はどのようにして始まったのでしょうか。 何が人を物々交換に掻き立てるのでしょうか。
 それはまさに 「見返りを求める愛」 にあるのです。 「条件付きの愛」 といってもいいでしょう。 つまり、

 「わたしがあなたを愛するから、あなたもわたしを愛して欲しい。」
 「あなたがわたしを愛するなら、わたしもあなたを愛してもいい。」

ということです。 これが基本形式です。 そして、これはすべての契約関係の基本形式でもあります。

 交換とは、見返りを求める愛が発展したものです。 そして、見返りの手段が 「愛」 という目に見えないものから 「物」 へと変わった時、実体経済(物々交換)が始まります。
 見返りを求める愛の受け渡し、これこそが交換の起源です。 そして、お互いが愛に満たされていないことがその前提条件としてあげられます。

 物々交換とはまさに、満たされなかった愛情を 「交換」 という行為によってお互いに穴埋めすることなのです。 親や周りの人間から無償の愛が得られなかった人間が唯一愛を手に入れることのできる擬似的な関係、それが交換なのです。
 それは基本的に 「満たされない者同士の関係」 です。 しかも、そこでは本物の愛、すなわち 「与え尽くしの愛」 があってはならないのです。 これが最大の特徴です。 悦びに関して言えば、プラスマイナスゼロの関係なのです。 ですから本物の悦びは決して得られません。
 そのかわり、満たされない不安や恐怖からは一応逃れられます。 また、交換する相手や物品が増えれば増えるほど、自分はこれだけの人と繋がっているんだぞ、愛を得ているんだぞ、というポーズにもなります。 こうして社会的な地位が保証されるようにもなるので、自分という存在がこの世から抹殺される危険性も回避できます。 それが無償の愛による絆というものを知らない人間に大いなる安心感をもたらすことは言うまでもありません。
 こうして、今日の商業体系の基礎が形作られていったのです。


商業は 「見返りを求める愛」 が起源である

 「もらえなかった無償の愛を擬似的な関係によって穴埋めすること、これが商業の起源である」 ─このひらめきがわたしを襲ったのは、やはり岩月教授の本を読んでいる時でした。 以下に、わたしがそのひらめきを得た部分の内容を紹介します。

『心の教育 あしたへの風』 P.88〜P.91より引用。
 内田玲子、岩月謙司、平井光治、板野敦子 共著 /発行:アートヴィレッジ

●テレクラに走る娘 ─”父”と”母”のいない家庭─

 実例を話しましょう。 テレクラをやめたいのだけれど、どうしてもやめられないという大学四年生が私の研究室に来ました。 見れば、真面目そうな子です。 丸顔のせいか、幼くも見えます。 彼女との会話を再現してみます。

T江

「私って淫乱なんです」

岩月

「どうしてそう思うの?」

T江

「イライラすると無性に男が欲しくなってしまうから」

岩月

「何にイライラするの?」

T江

「分かりません。 ムカツクんです」

岩月

「親に対する不満?」

T江

「分かりません。 でも親への不満はいっぱいあります」

岩月

「たとえば?」

T江

「私は、一番ほしいものがいえないんです。 いえ、いえなくさせられたんです。 おねだりしても、そんなに高いもの、って否定されるし、笑顔で帰宅すると不機嫌にされるんです。 私は自分はニコニコしてはいけない人間なんだと思い込むようになりました」

岩月

「辛い過去を思い出して怒りを感じた時にイライラするんだね」

T江

「はい。 テレクラッて異常な世界だと思います。 男も女も怒りで頭がキレているからできるんだと思います」

岩月

「怒りで性欲が刺激されるんでしょ」

T江

「そうです! イライラしてくると、テレクラモードに入ります」

岩月

「そういう女の子は多いよ。 皮膚もさびしいんじゃない?」

T江

「そうです! でも、自分の皮膚じゃないみたいなの。 おっぱいをさわられてもなんだか自分の体ではないような感じがします。 私って不感症かもしれません」

岩月

「お父さんからのスキンシップが足りない子に皮膚感覚がないと訴える女の子が多いね」

T江

「子どもの頃からお父さんが嫌いだったので、私の方からダッコされるのを避けてた」

岩月

「じゃ、お母さんからは?」

T江

「ありません。 だって母はベタベタされるの嫌いだもん」

岩月

「ベタベタしたくてテレクラに電話するのかな?」

T江

「そう思う。 さみしくなると年上の男の人にやさしくされたくなるの」

岩月

「うんと年上がいいの?」

T江

「こだわらないけど、少しでも年上がいい」

岩月

「具体的には何をしてほしいの?」

T江

「たくましい腕に寄り添って甘えることかなぁ。 それと風呂場で水遊びしたりとか一緒に歌を歌うとか…」

岩月

「まるでお父さんかお兄さんだね」

T江

「そうそう、うちの兄もテレクラやってるんだよ」

岩月

「えっ? お兄さんも?」

T江

「やさしいお母さんに飢えてるからね、気持ちは分かるよ。 うちの母は冷たいの」

岩月

「まさかお父さんはテレクラやっていないよね」

T江

「うん、わからないけど、援助交際ぐらいはしてるかもね」

 テレクラにはまっている他の女の子に聞いてみたところ、父や兄弟がテレクラや援助交際をしているらしいと証言する子が多いのには驚きました。 テレクラや援助交際が廃れないのは、電話をする男女が家族の中に同数存在するからかもしれません。 そして、家庭に父なるものや母なるものがないことが、テレクラに走らせる原因のひとつになっているようです。 昔から問題ある家庭には 「男と女と子どもしかいない」 と言われています。 父と母がいないのです。 それゆえ、父は娘からの尊敬を、娘は理想の父を、そして息子は聖母マリアを求めてさまよってしまうのでしょう。
 援助交際が流行(はや)る背景というのは、娘は父親が欲しい、一方、お父さんもまた娘から信頼されたいと強く思っている心理があって、お互いのニーズが一致しているからです。 もちろんお金を媒体とした関係だから、そのような父娘の関係は得られないのは分かっているんだけど、でも、形だけでも欲しい。 そういう擬似的なものを求めているのです。

※下線:Tarchanによる。

 ここまで読み進んだ時点で、わたしは思わず 「あっ!」 と声をあげました。 そして、即座にひらめきました。
 「満たされなかった愛情を擬似的な関係によって穴埋めすること、これが商業の本質なのであり、起源なのだ」 と。
 売春が人類最古の商売と言われるゆえんはまさにここにあります。 売春こそ 「満たされなかった愛情を擬似的な関係(=お金を媒体とした関係)によって穴埋めする行為」 そのものだからです。 「体を売ってでも愛情が欲しい」 ─そうした心理的な背景があるのです。

 なぜ、そこまでして愛を手に入れなければならないのでしょうか。
 愛が一切入ってこない状態というのは、人間にとって死ぬことと同じくらいの恐怖だからです。 だからこそ、見返りを求めるような偽りの関係でもいいから、とにかく愛情が欲しいのです。 無償の愛を得たことのない人間、どうやったら無償の愛を手に入れるかも分からない人間は、必然的に見返りを求める愛に救いを見出す以外に、愛を手に入れる手段がないのです。

 では、なぜ見返りを求めようとするのか。 親の愛情不足(欠如)にその原因のすべてがあります。 親がそのままの自分を愛してくれなかったからこそ、人から愛情をもらう時にはこちらから何かをしてあげなくてはいけないんだ、あるいは、こちらが何かしてあげれば、相手もこちらに愛情をくれるようになるんだ、と錯覚しているのです。
 こうして、愛情不足に陥った人間は 「無償の愛」 すなわち 「与え尽くしの愛」 が自分から出せなくなり、また、人からももらうことができなくなってしまうのです。 親から拒否的に育てられると、人間こうなってしまいます。 無償の愛を信じられなくなってしまうのです。 そして、無条件の愛など存在するわけがない、人から愛を得るためには何かをしてあげなくてはならない、そうすれば人はその見返りとして愛情を注いでくれるものである、という契約関係的世界観を形成するようになります。 これが交換という行為の背後にある感情です。
 こうしたほとんど先天的な愛情不足から、無償の愛をもらえなかった人間はその愛情の飢餓感を埋め合わせするためには、人といちいち契約を結ばないと愛がもらえない人間となります。 そして、すべての行動原理や価値観が 「ギブ・アンド・テイク」 に基づくものとなります。
 商業は、まさに 「愛のない家庭から始まった」 といっても過言ではないのです。


お金とは 「偽りの愛」 の証(あか)しである

 無償の愛を得られなかった人間が、愛を手に入れるための唯一の手段、それが交換という行為です。 その本質は 「見返りを求める」 という点にあります。
 なぜ見返りを求めるのか。 その理由は先にも述べたように、愛情が一切手に入らない状態というのは、それほど人間にとっては耐え難いものであり、恐怖であるからです。 だからこそ、たとえニセモノの愛でもいいから、愛情の証しを求めるのです。 この愛情の証しが数字によって表されたもの、それがいわゆる 「お金」 なのです。

 お金は見返りの愛がもらえたことの証しとなるものです。 しかし、実際にはお金がいくら入ってきても虚しくなるばかりです。 なぜなら、本物の愛情は一向に満たされないからです。 寄ってくるのはニセモノの愛情を持つ人間ばかり。 したがって、入ってくる愛もニセモノばかり。
 それでも、たまたま機会に恵まれて周りの人たちから何ほどかの無償の愛をもらっている人間は、そこに救いを見出すことができます。 しかし、そうした機会にも恵まれず、極度の愛情飢餓に陥った人間の場合、たとえニセモノでも、何も入ってこないよりはマシとばかりに、さらに愛の証しを得ようとますますお金に執着する、という悪循環に陥ることになります。
 ですから、無償の愛というものを知らない人間は、いくつになっても社会的地位やお金に執着する傾向があります。 傍から見れば所詮アクセサリーにすぎませんが、それでも愛情に飢えている人間にとっては、愛情飢餓を埋め合わせるためにはぜひとも必要なアクセサリーなのです。

 しかし、それでも本物の愛情はいつまでたっても手に入りません。 そうすると、その人間の心の中は怒りと不信で満ち満ちたものとなります。 そしてそれは当然、怒りと不信のサインとなって外見に現れることになるのです。
 怒りは破壊のエネルギーです。 他人に危害を加えようとする意志そのものです。 その怒りと不信のサインを受け取った周りの人間は、その人間を 「醜い」 と感じるようになります。 この怒りと不信というものに人間の醜さの根源があるのです。 自分に 「悦び」 をもたらすのか、あるいは 「怒り」 をもたらすのか、ここにこそすべての人間の美醜判断の基準があるのです。

 お金に執着すればするほど人間の顔は醜くなります。 異常な金銭欲を持つと、その表情に怒りと不信のサインがバンバン出てくるからです。 なぜ昔から商人というものが醜いイメージで捉えられ、また実際にそういう人間が多いのか、これで説明が付きます。(正確に言うと、お金に執着するタイプの商人です。 逆に、同じ商人であっても、あまりお金に執着しないタイプの商人の場合は、顔はそれほど醜くなりません。 中庸をわきまえているからです。)
 では、そのような金銭欲を生み出す怒りや不信はどこから来るのか。
 愛情が一切入ってこないことへの恨みです。 もとはといえば、ニセモノの愛情(お金)ばかり得ようとしている自分自身に責任があるのですが、本人はそのことに全く気づきません。 そして、満たされない飢餓感を癒そうとして、さらにお金に執着する → さらに顔が醜くなる → ますます人から愛されなくなる、という悪循環に陥っていくのです。

 本来、人間というものは親からたっぷりと愛情を注がれて育っていれば、お金などに執着しないものです。 たとえそれが生活していく上で必要なものであると認知しても、これといった興味を示すことはありません。 それ以上の気持ち良さや悦びというものを体験的に知っているからです。
 逆に言えば、親や周囲の人間からたっぷり愛された人間、すなわち幼い頃から無償の愛をたっぷり受け取った人間が、契約関係の中に身を置くと違和感を覚えるのはそのためです。 本物の愛が得られない恐怖、自分が自分でなくなってしまう恐怖が襲うのです。
 どれだけ愛情に満ち満ちた人間でも、どれだけ人から愛される資質を十分に持っている人間でも、長い間契約関係の中に身を置いていると、やはりそのパワーをだんだんと奪われていきます。 そうなると、やはりもともと親から無償の愛を受けたことのない人間と同じように、しまいには愛情飢餓に陥ってしまうことになります。 この問題も深刻です。

 実際、契約関係の中では純粋な愛は一切手に入りません。 そこにあるのはあくまで見返りを求める愛です。 見返りを求める愛に対する本能的な拒否感情を持っている人間にとっては、まさにエネルギーを吸い取られていくだけで、何ら悦びの感情が湧いてきません。 こんな見返りを求める愛のやり取りなど本物ではない、すべてニセモノである、と本能的に感じ取ってしまうのです。
 これは、親から無償の愛を得られなかった人間が 「無償の愛、無条件の愛なんてこの世に存在するわけがない」 と思っているのと、まさに対照的です。 ですから、契約関係というのは無償の愛を信じられない人間にとってのまさに安住の地なのです。 より大きな悦びが得られない替わりに、必要以上のコンプレックス(すなわち親から愛されなかったという)を感じないで済むというメリットがあるからです。

 しかし、そのままでは愛情飢餓は永遠に癒されることはありません。 これは親から無償の愛を得られなかった人間でも薄々感じていることなのです。
 現代人の多くが抱えるストレスの原因は、実はこのニセモノの愛情にウンザリしていること、すなわち 「愛情飢餓」 によるところが大なのです。 契約関係でがんじがらめにされてしまうと、人間はこうなってしまうというのが、現代人の姿が示しているものなのです。
 実際、経済が発達すればするほど、人間関係というものは殺伐としてきます。 しかも、それは家族関係、とりわけ夫婦関係に最も顕著に現れます。 そして、そのツケは最終的に子供たちに回されることになるのです。


契約関係からは愛や信頼や美は育たない

 契約関係というものが人間にどういう悪影響を及ぼすことになるのか、家族関係を例にとってお話ししたいと思います。
 家族関係が円満に保たれるためには、まず夫婦仲が円満でなくてはなりません。 これが絶対条件です。 夫婦関係こそ家族の中心なのです。 決して親子関係ではありません。
 家庭内の愛の流れの基本型は、「父→母→子供」 です。 子供は両親それぞれから充分な愛情を注がれる必要があることは言うまでもありません。 しかし、子供は父と母の片方づつから別個の愛情を注がれてもあまりうれしくありません。 妻を十分に愛している父親から、そして、夫から十分に愛されている母親から、純粋な聖なる愛を受け取りたいのです。 妻を十分に愛していない父親が子供に純粋な愛を注げるわけがありません。 同様に、夫から十分に愛されていない母親が子供に純粋な愛を注げるわけがありません。 子供にはそれがちゃんと分かるのです。
 父親と母親それぞれから子供にどれだけ単独に愛情が注がれたとしても、肝心の夫婦間に愛情が欠けていれば、その家族は最初から崩壊していることになります。 まさに仮面家族です。 この夫婦間の愛情の欠如にこそ、現代のほとんどの家族が抱えている問題の根があるように思います。

 夫婦間の愛情が欠けていると、夫婦関係そのものが契約的になることは言うまでもありません。 新婚当初は盛り上がった関係であっても、それ以降はただ単に同居している二人です。 お互いが真の愛情に満たされていませんし、夢も希望も失っています。
 こういう親が子供へ注ぐ愛情というのは、当然ながら子供の愛情の器を満たすものではありません。 むしろ子供に嫉妬したり、無視したり、あるいは虐待したりします。 最もましな場合でも、自分たちが叶えられなかった密かな願望を子供に託す、といった形でしか現れなくなります。 したがって、そこからは親の都合が子供の幸せを左右するという契約的な関係、すなわち 「見返りを求める愛」 しか生まれないことになるのです。

 本来、子供の無限の幸福を願うことこそ、親の役目であるはずです。 決して見返りを求めたり、嫉妬したりして、子供の幸福を妨害してはいけないのです。 そして、子供にとっては親よりも幸福になることこそ、親に対する最大の恩返しになるのです。 決して親に遠慮したりして不幸になってはいけないのです。
 もし親が子供の幸福に嫉妬していることに気づいたら、親自身が自分たちの幸福をとことん追求すればよいのです。 自分たちの幸福を追求しようとしないからこそ、子供の幸福を妨害しようとするのです。
 逆に、子供の方は 「お父さんお母さん、どうぞ自分たちの悦びを追求して、わたしよりも幸せになって下さい」 と願っていればよいのです。 それで何の支障もありません。
 たとえ親子で趣味や考え方が全く違うものであっても、お互いがお互いの幸福を願う励まし合いの関係であれば、親子はライバルであって一向に構いません。 親子共々、それぞれが自分の悦びを得られるよう、お互いが励まし合い、協力し合うこと、すなわち悦びに関してあくまで対等であることが、本来の家族のあり方というものなのです。

 片方が犠牲になって片方を悦ばせる関係からは、決して信頼関係は生まれません。 そこにあるのは一方が一方を必要以上に恐れたり、お互いがお互いを不信の目で見る関係です。
 例えば、上下関係が強い家庭では、人質が銀行強盗の犯人を恐れるように、子供が親を恐れます。 絶えず見捨てられる不安や恐怖にさいなまれます。 そうしたことから、その不安や恐怖を回避するために無理をしても親を良く見ようとしたり、悦ばせようとして、その見返りに自分を見捨てないでほしいという、物々交換的な契約関係が出来上がるのです。(これがいわゆる 「家庭内ストックホルムシンドローム」 です。)

 こうした人間の心の中では、絶えず欺瞞が発生しています。 つまり、嫌悪を好き、軽蔑を尊敬、不満を感謝という具合に置き換えることによって、自分の本当の気持ちよりも、まずは家庭で生き残ることを優先させてしまうのです。
 しかし、そうした自己欺瞞のツケは必ずどこかで補うことになります。 つまり、自分の心の奥底に隠されている親に対する根源的な不満や怒りを、親ではなく、他人にぶつけることによって、そのうっぷんを晴らそうとするのです。
 実は、人間の怒りの大半は親に由来するものなのです。 ですから、そうした怒りは本来ならば親にぶつけるべきものです。 しかし、悲しいかな人間というものは、いくつになっても親から愛されたいという弱みを持っています。 親から愛されなかった事実を認めることほど、人間にとって辛いものはないからです。
 そこで、そのうっぷんの矛先は常に他人に向かうことになります。 こうして 「不幸(怒り)の連鎖」 というものが出来上がっていくのです。

 親から愛されなかったり、親の幸福のために自分の不幸をいとわなかった人は、将来必ず誰かが幸福になるのを妨げることによって、不幸な自分の穴埋めをしようとします。 人は誰でも自分の人生をあきらめると、みんな不幸の方がいい、と思うようになるからです。 この時、犠牲の対象となるのはアカの他人はもちろんのこと、兄弟姉妹、友人、恋人、夫(あるいは妻)、嫁姑、そして自分の子供です。 自分が幸福になることが親の幸福であったはずなのが、それができなかったばかりに、本来親の代で止まるべき不幸の連鎖の片棒を担いでしまうのです。 そして、こういう人間にかぎって親元にいつまでも同居しては、せっせと親孝行に励んでいたりするものなのです。

 ここから言えることは、自分や他人を犠牲にして成り立つような幸福などどこにもない、ということです。 あるのは 「わたしもうれしい、あなたもうれしい」 か、「わたしもつまらない、あなたもつまらない」 のどちらかです。
 例えば、他人に平気で嫌な思いをさせたり、危害を加えたりする人間は、そのツケが回り回って自分のところに跳ね返ってきて、やがて自滅します。 そういう人間の周りには文字通り 「キレた」 人間しか寄ってきませんし、そういう人間同士は文字通りエネルギーの潰し合いの関係しか作れないからです。
 そして、子供をそのような人間に育ててしまった親にも、やがて 「負の見返り」 が待っています。 そういう点で、世の中は実に平等に出来ているのです。 こうしたメカニズムを知っておくことは、わたしたちが不幸の連鎖の中に組み込まれないためにも、たいへん重要なことなのです。

 もし、あなたが親に気兼ねして自らの幸福を棒に振るようなことがあるとしたら、間違いなく不幸の連鎖の中に組み込まれているといっていいでしょう。 すなわち、親から見返りを求められているということです。
 見返りを求められているとは、例えば次のような形となって現れます。
 妻を愛せない父親が娘に妻の代わりを期待したり、夫から愛されていない母親が子供と被害者同盟を作ったり、単に世間的な見栄から子供にいい大学、いい会社に入ることを迫ったりすることなどです。(将来自分たちが養ってもらうためです。) 親は子供にこうした要求を突きつける傍らで、あらゆるタイプの脅し空かし、泣き落としを駆使して、なんとか子供を自分と同じレベルの幸福度にまで下げようとします。 親孝行とは、こうした見返りを求める愛から出た言葉です。 決して信頼関係に基づくものではないのです。

 親の子供に対するこのような見返りを求める愛を、岩月教授は 「呪い」 と表現しています。 親自身が純粋な愛情に満たされていないと、その埋め合わせを子供の幸福を犠牲にすることによって果たそうとするのです。
 一番ひどい例は、言うまでもなく虐待です。 親の子供に対する嫉妬心があまりにも激しい場合、こうなります。(グリム童話で有名な 『白雪姫』 は、このような親の嫉妬心を背景として生み出されたものです。 原作では、白雪姫を殺そうとしたのは、継母ではなく、実母だということです。)
 一方で、子供が自ら先回りして親の激しい嫉妬心を自分にぶつけることもあります。 あらゆるタイプの自傷行為(リストカット、ピアスなど)は、こうした理由によるものです。
 これが極限までいくと、子供は親に替わって自分で自分の命を絶つことになります。 本当に悲しむべきことですが、実際に起こっていることです。 一見、家庭の外での悲惨な出来事が自殺の引き金となった場合でも、突き詰めていくと、親の問題に行き着くことがほとんどです。 いじめを受けたから、などというのはあくまできっかけにすぎません。 家庭が子供にとって安らぎの場であるならば、いじめを受けたぐらいで自殺などしません。 むしろ、家庭でも社会でも居場所がないからこそ、ふとしたきっかけで自らの命を絶ってしまうのです。
 いじめによる自殺とは、いじめる側、いじめられる側双方の家庭問題の露呈でもあるのです。 双方の親に問題があることがその真の原因なのです。 親の呪いが激しい場合、こうした恐ろしい結果を招くことになるのです。

 不幸な親はこれ以上自分の不幸を意識しないようにするために、子供に呪いをかけてしまいます。 こうした呪いは通例母親がかけます。 なぜなら、父親の子供に対する嫉妬というのは、直接的な暴力やセクハラ、あるいはののしりといった目に見える形で現れることが多いのに対し、母親の嫉妬は、たいていの場合、悲しみには同情することはあっても悦びには決して共感しない、言葉で言わないかわりに不機嫌な態度や悲しげな表情をしてみせる、病気になる、などの 「受容拒否」 という消極的な形となって現れることが多いからです。 つまり 「発覚しにくい」 ということです。 だからこそ 「呪い」 なのです。
 もちろん呪いをかけている本人は無意識です。 その時に使われる決まり文句はたいてい 「あなたのためを思って」 です。 しかし、その真意はあくまで 「あなたに愛情を注ぐ替わりに、わたしよりも幸福になるな、わたしよりも綺麗になるな、わたしよりも愛されるな」 ということなのです。(特に、夫から愛されない母親の、娘の容姿に対する嫉妬は相当に根が深いものがあるようです。 娘が思春期を迎える頃になると一層激しさを増します。 なぜなら、女性にとって 「愛されない自分」 を意識するということは、死を宣告されたにも等しい恐怖だからです。)

 自分の親からこのような二重の信号を受け取ると、子供は混乱してしまいます。 ですが、子供はもともと 「親から見捨てられたら生きていけない」 という弱みを持っています。 こうしたことから、やがて親の言葉やその素振りの背後に隠された裏の真意を汲み取るようになり、自分の本当の感情を押し殺した、いわゆる 「いい子」 になろうとするのです。
 しかし、子供はこうした自分自身の行動を心の奥底ではおかしいと感じています。 「どんなに両親からそれぞれ別個の愛情を注がれていても、本物のような気がしない」 「父と母の間の愛情のやり取りを見ていると、自分に注がれている愛情も偽りに見えてしまう」 「でも、自分はあくまでいい子でいなくてはならない」 ─こうした矛盾した感情は、やがて思春期になって一気に爆発します。 すなわち、自我に目覚める頃に必ず何らかの異常行動に走るようになるのです。
 子供には自分には何が欠けているのか、うまく言葉にして親に抗議することができません。 もともと親から純粋な愛情をもらったことのない子供は、純粋な愛とはどういうものであるかを知りません。 ですから、自分に純粋な愛が欠けているなどとは夢にも思わないのです。
 しかし、自分には何かが足りないと薄々感じています。 ですが、うまく言葉にして訴えることができません。

 そうした飢餓感はやがて怒りに変わってきます。 このような怒りが外に向かうと、いじめ、万引き、恐喝、暴走行為、家庭内暴力、強姦、殺人などの他虐的行為となって表れます。
 逆に、怒りが内に向かうと、不登校、引きこもり、精神分裂病、リストカット、刺青、ピアス、美容整形、過食嘔吐、拒食といった自虐的行為に表れます。(テレクラ、援助交際、売春といった奔放な性行動も一種の自虐的行為といえるでしょう。)
 また、怒りが体に直接向かう場合は、アレルギー、アトピー性皮膚炎、喘息、自律神経失調症、胃潰瘍、下痢、頭痛、肩こりなどの心因性の症状となって表れます。
 子供たちはこうすることによってしか、親や社会に訴えるすべを知らないのです。 その真に訴えたいところは、「僕(わたし)はこんなに他人や自分を傷付けている。 こうまでしているのだから自分を真正面から見てほしい、親自身にも変わってほしい、今までの愛のない生活を改めてほしい、そして自分に純粋な愛情を注いでほしい」 という、まさにその一点にあるのです。

 しかし悲しいかな、そうした子供の切実な訴えというのは、たいてい親に届くことはありません。 なぜなら、そもそも親自身に子供の幸福に嫉妬しているなどという自覚がないからです。 ですから、自分の子育てによもや失敗があったなどとは夢にも思いません。 子供がなぜそういう行動に出るのかも理解できません。 こうして親子の心のすれ違いはますます大きくなっていきます。
 そして、子供たちは反抗しているように見えて、実は親の戦略に見事にはまってしまっているというのが、本当のところなのです。
 自分の不幸をこれ以上意識したくない親は、子供のいわれなき反抗に戸惑っているように見えても、子供が自分よりも幸福にならない範囲内でしか同情を示しません。 すなわち、自分の七割程度の幸福なら許すのです。 それが証拠に、子供が病気になった時などはそれこそ親身になって看病したりします。 しかし、子供がより大きな幸福をつかもうとすると一転して子供の幸福を妨害する側に回るのです。
 つまり、子供が 「自分よりも」 幸福にならないことこそ至上命題なのです。 子供が適度に不幸な方が都合がいいのです。 子供がいかなる手段で抗議しようとも、そのうち怒りが自然と収まってくれればいいとしか考えていないのです。 お互いが幸福でないことを確認し合いたいだけなのです。
 だからこそ、いつまでたっても不幸の連鎖が終わらないのです。 こうして、まるで遺伝でもするかのように、不幸の連鎖が綿々と受け継がれていくのです。


第一希望を選択しないことが不幸の連鎖を招く

 親は誰でも子供の幸福を願うものである、というのは、残念ながら幻想に近いものがあります。 親は昔から子供の幸福に嫉妬してきたのです。 どんなに愛情深い親でもそうです。
 しかし、親は子供に嫉妬ばかりしているわけではありません。 子供の幸福を願う心もちゃんと持っています。 大事なことは、子供の幸福を願う心が嫉妬する心を上回ればいいのです。
 ただし、それは単に子供を可愛がることではありません。 子供というものは、だいたい思春期くらいまでには両親からもらうべき愛情はすべてもらい尽くしてしまいます。 したがって、それ以降は親以外の人間から愛を得るすべを学ばなければなりません。 親の役目とは、子供の幸福を願う心を通じて、「わたしたちと同じようにあなたを愛してくれる人は世の中にはたくさんいます」 「たくさんの人たちから愛情をたっぷりともらいなさい」 ということを教えることです。 これが、いわゆる 「子供の無限の幸福を願う」 ということなのです。
 こういう親に育てられた子供は本当に幸福になることができます。 友人にも恵まれます。 人生の伴侶にも恵まれます。 結婚して子供が生まれた場合でも、ちゃんと愛情を注げるようになります。

 ところが、親自身が不幸だと、子供の幸福に嫉妬するばかりで、子供の真の幸福を願うことができなくなってしまうのです。 むしろ 「あなたを愛するのはわたしたちだけだよ」 「他の人から愛情を受け取ってはいけないよ」 ということをあらゆる機会をとらえて教えようとします。 しかも、それを子供が本来必要とする量の愛情を与えないことによって教えようとするのです。 そうすることによって、親よりも幸福になってはいけない、という限定された幸福しか子供に許そうとしないのです。

 「実の親ですら自分の幸せを願ってくれなかった。 ましてや親以上に自分の幸せを願ってくれる人なんかこの世にいるはずがない」 ─ここからいわゆる人間不信が発生します。
 人間不信はたいてい、自己不信、自己卑下、自己嫌悪とセットになって現れます。 このような自分や他人に対する歪んだ世界観をいったん身に付けてしまうと、自分はおろか、他人さえも信じられなくなってしまいます。 親以外の人間がすべて敵に見えてしまいます。 その結果、他人と愛と信頼と美の関係が結べなくなってしまうのです。
 しかも、それは子供が自分で望んだことではないのです。 親がそうさせたのです。 子供の人間不信の原因はほぼ100%親が作り出しているといっても過言ではありません。 親の嫉妬や依存や独占欲によって子供を思うがままに操ろうとすること、これこそが呪いの正体なのです。

 親の子供に対する嫉妬は相当に根が深く、巧妙に仕組まれます。 しかも、それは一般に問題があると言われる家庭だけではなく、一見平和そうに見える家庭でも嫉妬の嵐が渦巻いている場合が多々あるのです。
 親の嫉妬というのはたいてい、子供の第一希望を叶えてあげない、ということで実行されます。 子供のわがままを一切聞いてあげないのです。 たいていの親はこれを 「しつけ」 と称しています。
 わがままとは基本的に 「気持ちよさ」 を求める行動です。 それは子供が親の愛情の深さを測るための試しでもあります。 もし、そこで自分のわがままを一切聞いてもらえないとしたら、自分という存在が一切否定されたような悲しみが襲います。 もちろん、わがままを聞いてもらえる一方でもいけません。 溺愛とは一種の無関心であり、愛の無さの証明だからです。 どちらの場合も、子供は間違いなく愛情飢餓に陥ります。
 もし、親が子供のほんの些細なわがままも許さず、人生そんなに甘くないと思っているとすれば、それは親自身が自分の親からわがままを一切聞いてもらえなかったせいなのです。 それ以上のそれ以下の理由もありません。 自分がわがままを聞いてもらえなかったからこそ、子供にもそれを許すことができないのです。

 もともと子供のわがままには必ず際限があります。 親の本当の優しさを感じた時です。 そうした親の愛情を子供が感じ取るまで、親は可能な限り、子供のわがままを叶えてあげるべきなのです。
 もちろん理不尽な要求には断固ダメと言うべきです。 そうした場合でも、ただ親がそう思うからではなく、ダメと言うことが子供のためになるという真の優しさから滲み出たものでなければならないのです。 そうすれば子供はたとえ拒絶されても安心します。 親の愛情を感じることができるからです。
 そうした親の愛情を感じることができないまま、一貫性というものを欠いた、あまりにも理不尽な拒絶ばかりされていては、子供はやがて親に絶望し、聞いてもらえなかったわがままを心の奥底に永久にしまい込み、無念と恨みの執着を抱いたまま確実に思い残していくことになるのです。

 このような仕打ちを受けた子供は、ほぼ例外なく 「どうせこの親には何を言ってもムダなんだ・・・」 と思うようになります。 こうして次第に自分の意見を押し通すことのできない、第三、第四、第五希望ばかりを選択する人生がスタートすることになります。
 こうした 「どうせ何を言ってもムダだ・・・」 という考えは、やがて友人にも、学校の先生にも、会社の同僚や上司に対しても、恋人に対しても、結婚相手に対しても、人生に対しても適用されるようになります。 そして、「どうせ何を言ってもムダだ・・・」 という人間をわざわざ選んでは、「どうしてこの人は私を分かってくれないんだ・・・」 と嘆くようになります。 まさに堂々巡りです。 親からわがままを聞いてもらえなかっただけで、人間というのはここまで尾を引いてしまうものなのです。

 どうしてそのような間違った選択をするようになるのでしょうか。
 まず第一に、「好き」 と 「嫌い」 の感覚が分からなくなっている、ということが挙げられます。
 自分の親を100%好きだと思っている子供は一人もいません。 人はたいてい親には何かしらの不満は持っているものです。 ただし、親を好きという感情が、嫌いという感情を上回っている場合は何の問題もありません。 対人関係もスムーズに行きます。 好きという感情が50%超える人と積極的に付き合うので、行動に矛盾がありません。
 しかし、親を嫌いという感情が上回ると、対人関係において様々な問題が起こってきます。 つまり、80%は嫌いだけど、20%は好きという人を、100%好きと勘違いしてしまうのです。 そういう人間ほど相性ぴったりと思ってしまうのです。 なぜなら親との関係で経験済みだからです。 本当は80%嫌いなのに、わざわざ自分から近づいていっては、友人になったり、恋人になったり、果ては結婚してしまったりするのです。
 しかし、もともと嫌いなわけですから、当然、破綻が約束された関係です。 一緒にいても悦びの感情がちっとも湧いてきません。 そして、そのような関係をだらだらと続けては悲しい結末を迎えるのです。 それ以後もよほどのことがない限り、失敗の経験は生かされることはありません。 まさに矛盾だらけの人生です。

 第二の問題は、見下しの感情が働いていることです。 自分よりも哀れで弱い部分を持つ人間を見た時に働く優越感を 「好き」 と勘違いしてしまうのです。 そういう相手だと劣等感が刺激されなくて済むのです。 むしろダメな人間の方がほっとするのです。 お互い傷のなめ合いができるからです。(暴力夫に耐える妻というのは、たいていこのケースに当てはまります。 たとえ日常的に暴力を振るわれても、一緒に生活しているだけで見下しの快感が得られる、保護者気取りになれる、ないはずの母性がくすぐられる、などの理由で、収支はプラスマイナスゼロか、それ以上となるのです。)
 こういう場合、相手が自分よりも楽しい思いをしたり、幸せになろうとすると、急に手のひらを返したように冷たい態度を取ったり、足を引っ張るような行動に出ます。 急に裏切られたと思い、今までの親切が馬鹿々々しくなったりします。 なぜなら、いつも自分が上でなくてはならないからです。 相手が自分の期待通りに動かないと駄目なのです。 いわゆる上下関係です。 そして、いったん駄目と分かった後は何事も無かったかのように関係を終わらせます。
 こういうことが平然とできるのも、そもそもお互いの間に最初から関係などなかったからです。
 本来、お互いが対等でなくては信頼関係は成り立ちません。 見下しの感情があると、最初から信頼関係が築けないのです。 しかも、たいていの場合、自分が相手に見下しの感情を抱いていると、自分も相手から見下されていることが多いのです。
 相手を当てにしながら相手を信じていない関係、相互不信をベースにした依存関係、これが見下し合いの関係の特徴です。

 第三の問題は、見捨てられ恐怖が働くことです。 すでに家庭において一度否定されて育ったので、これ以上誰からも否定されたくないばかりに、自分を否定しそうな人間を見ると無意識に近づいていっては尻尾を振ってしまうのです。 「あなたの奴隷になるかわりに、わたしを見捨てないでほしい」 という見返りを求めているのです。 自分からは愛を出さないのに、相手からは愛してほしい、という極めて自分勝手な要求です。 親から聞いてもらえなかったわがままが、こういう所で顔を出すことになるのです。

 第四の問題は、改造願望が働くことです。 そういう人間だからこそわざわざ自分から近づいていっては改造したくなるのです。 本当は好きではないけれど、自分の力で何とかすれば今の状態から変わってくれるという密かな期待を込めているのです。
 その背後には、明らかに親の影を見ています。 本当は親を改造したかったのです! しかし、それはできませんでした。 だからこそ、その思い残しの無念をアカの他人で晴らそうとしているのです。

 しかし、そうした努力は実ることはありません。 たいてい失敗に終わります。 しかも、回を重ねるごとに悲惨の度が増していきます。
 一番悲しいことは、子供がそうした親の嫉妬のメカニズムに気付くことなく、仕事選びや友人選びや恋人選びにおいて、不幸な出会いや別れを繰り返しては、自分は不幸な人間であると思いこみ、そのまま不幸な人生を送ってしまうことです。 こうした人間の最終的に行き着く先は、決まって愛のない結婚生活なのです。
 親の嫉妬の目があると、子供はたとえ自立して社会に出ていっても、いざという時にはやはり親の目が気になって、親が気に入ることを第一に考えた進路選択や人選をしてしまいます。 すなわち、自分の第一希望を捨てて、わざわざ第三、第四、第五希望を選択するようになるのです。
 やる気のない仕事をわざわざ選んでは 「やる気が出ない、面白くない」 と愚痴をこぼしたり、自分を愛してくれない人間にわざわざ近づいては 「どうしてわたしを愛してくれないの?!」 と嘆いてみたりするのです。
 当たり前です。 こうした第三〜第五希望クラスで選んだ仕事や人間というのは、たいてい自分を駄目にするものだからです。 自分を愛してくれない環境や人間にわざわざ近づいていっては 「愛を下さい」 と言っているようなものなのです。 こうして、まるで実家での親との関係をそっくりそのまま再現するかのように、不毛の転職、不毛の恋愛を繰り返していってしまうのです。

 すべての悲劇は、第一希望を選択していないという、まさにそこから始まっています。 第一希望とは、「自分が一番好きなことをする」 「自分が一番好きな人と付き合う」 ということです。 一見単純なことですが、これがなかなかできない人が多いのです。
 好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと感じること、これが正常な人間の感覚です。 人間関係のつまずきとは、この 「好き」 と 「嫌い」 の感覚を取り違えていることからくる場合がほとんどです。 好きな人を嫌いと思ったり、嫌いな人を好きと勘違いばかりしていては、人生がうまくいかなくなって当然です。
 好きになろうと努力することは愛でも何でもありません。 ただの執着です。 そういう愛のない人間からこれ以上愛をもらおうとしないこと(たとえ実の親であろうとも!)、そして他のもっと愛情深い人間からより純度の高い愛をもらおうとすること、これをもって人間存在の真の解放と為すべきものなのです。

 本来、人は何の障害もなければ迷うことなく第一希望を選択するはずです。 ましてや自分で自分を不幸な状況に追い込むようなことは決してしないはずです。 それでも第一希望を選択できないということは、やはり何かが邪魔していると考えるしかないのです。
 では、何が邪魔しているのでしょうか。 どうして第一希望を選択しないのでしょうか。
 親の呪いがそうさせるのです。 第一希望を選択することが即、親の嫉妬を招くために、自分の家庭では許されなかったからです。 第三、第四、第五希望を選択することが、親元で生き残るための唯一の戦略だったからです。 唯一の戦略だったからこそ、社会へ出てもなかなか捨てられないのです。 自分の居場所が失われるような恐怖が襲うのです。 適度に不幸な方が居心地がいいと思うのです。
 こうして一歩一歩幸福から遠のいていきます。 適度に不幸であることが人生なのだと錯覚したまま一生を送ります。 そして親の呪いが完成するのです。

 嫉妬が家庭の中にあると、家庭は必ず崩壊します。 今崩壊しなくても、世代を経るごとに不幸の度合いが増していき、やがて家系そのものが途絶えます。 たとえ血の繋がった関係であろうとも、悦びの感情が生まれない関係というのは、いつか必ず破綻するものだからです。
 だからこそ、親は本来自分たちで解決すべき問題を先送りにして、子供たちにそのツケを押し付けてはいけないです。 この場合の問題とは、純粋な愛情の欠如です。
 そもそも親の第一希望は、結婚を通じてお互いに純粋な愛を出し合い、お互いの満たされない思いや欠点を補うことにあったはずです。 人はたとえ自分の親から純粋な愛情を注いでもらわなくても、他の愛情深い人間から純粋な愛を受け取れば、十分にその満たされない思いを晴らすことができます。 だからこそ人は結婚するのです。 ところが、昨今ではどういうわけかお互いに純粋な愛を出し合うことをしない夫婦が多くなっているのです。
 本来、第一希望というのはすぐに叶えないと賞味期限が過ぎてしまいます。 冷凍保存という手もありますが、子供が生まれてからは通用しません。 すぐに純粋な愛情を注がないと駄目なのです。 腐りかけた愛情では子供が栄養失調になってしまうのです。 今まで純粋な愛をやり取りしたことのない人間が、子供が生まれた途端にパッと気持ちを切り替えて、いきなり子供に純粋な愛情を注ごうとしても、できるわけがないのです。
 現代の状況はまさに、こうした純粋な愛情の欠如がもたらす不幸の連鎖の集積といっていいでしょう。 そして、こうした不幸の連鎖の最大の元凶こそ、見返りを求める愛、すなわち契約関係なのです。

 こうした不幸の連鎖は一度どこかで断ち切らなければなりません。
 今日の荒れる子供たちは、まさに 「純粋な愛情が欲しい」 と口々に訴えているような気がしてなりません。 もちろん、親たちにも同情すべき点がないわけではありません。 社会の側に子供たちの幸福を願う良い 「気」 がないと、いくら親たちが努力しても周りからどんどん悪いものが入ってくるからです。 現代という時代はもともと純粋な愛が育ちにくい地盤となっています。 そうしたことも子供達の荒れる大きな要因となっています。
 高度経済成長以前、つまり昭和30年代頃までは、たとえ不幸な家庭に育っても、周りの暖かい大人達から容易に純粋な愛が手に入りました。 たとえ貧しくても、自分を愛してくれる人は社会には大勢いるんだという安心感の中で育つことができました。 しかし、経済が高度に発達し、人々のふれあいも希薄になった現代では、それも大変難しくなっています。

 このままでは子供たちはますます歯止めが効かなくなって、ますます荒れていくことでしょう。 そして、ここままではやがて誰も子孫を残そうとする意欲も薄れ、やがて種の破滅へと突き進んでいくことになるでしょう。
 子供たちが荒れる最大の元凶は親であり、社会の側にあります。 子供が変わるためには、まず親が変わらなければなりません。 そして親が変わるためには社会が変わらなければならないのです。
 しかも生半可な方法では親も社会も変えることができないのです。 それは何よりも今までの 「愛がない世界なのだから、人々がお互いにもっと愛し合えばいい」 といった建前論に終始した道徳教育や哲学の無力さが証明しています。
 それでは一体どうしたらいいのでしょうか。
 ここでは、それらに替わる新しい知恵が必要なのです。


なぜ外見が大事なのか

 人は愛し、愛されてこそ、自分が何者であるかを実感できます。 この場合の愛とは、何の見返りを求めない愛、無償の愛です。 本来、父親や母親、そして人生の先輩たちが何の理由もなしに子供たちに注ぐべき純粋な愛、あるいは、男女の間に芽生える相手を無条件に思いやる気持ちのことです。
 そして最も大事なのは、自分が幸福になることで他人を幸福にすること、すなわち悦びの共感です。 決して他人の不幸に同情することではありません。 お金を払って求める悦びでもありません。
 自分自身の幸福を最大限に追求することは一見利己的に見えますが、決してそうではありません。 まず自分が楽しく生きないと他人の幸福を願うことはできないのです。 究極の利己は究極の利他に繋がるのです。
 したがって、他人を愛するためにはまず自分を愛することから始めなくてはなりません。 そのためには自己不信、自己卑下、自己嫌悪を取り除かなくてはなりません。 自分も捨てたもんじゃない、と思えるようになった時、人は自然と他人を愛せるようになり、また人からも愛されるようになるのです。

 そこでわたしは、まず 「形から入ること」 を皆さんに説いていきたいと思います。
 純粋な愛で人を愛するためにはどうしたら良いか。 無償の愛を手に入れるすべを知らない人間は、一体どうやったら無償の愛を手に入れられるようになるのか。 どうしたら不幸な人間は他人の幸福に嫉妬しないで済むようになるのか。
 その方法はただ一つ、美しい外見を身に付けることです。 それ以外に方法はありません。 まずは形から入ることが大事なのです。 心だけ変えても、何ら現実を変えることは出来ないのです。
 しかも、それは自分自身の意志の力によって行わなければならないのです。 人から直してもらおう(美容整形やエステ)などという受け身の発想では駄目なのです。 楽しく生きたい、幸福になりたいと思うのなら、まずは自らが努力することが大事なのです。

 人から純粋な愛を注いでもらうためには、まずこちらから純粋な気持ちで人に接しなければなりません。 その 「純粋な気持ちで接している」 という最良の証しとなるのが、ずばり外見なのです。
 外見とは、もちろん顔形だけではありません。 声も、しぐさや態度も、髪型も、服装も、果ては交友関係にいたるまで、外に現れてくるものすべてが含まれます。
 したがって、性格の良し悪しは必ず外見に表れます。 一番表れやすいのは、いうまでもなく顔です。 顔に表れなければ体のどこかに表れます。 体に表れなければ声に、態度に、しぐさに、服装に、交友関係に表れます。 つまり、外見はどこまでも付いてまわるということなのです。
 たとえ顔形が整っていても、態度や服装や交友関係が乱れていては、やはりその人間を評価する際に重大な悪影響を及ぼします。 「顔はいいけど性格がちょっと・・・」 というのは、たいていこういう場合を指します。
 だからこそ人に悪い印象を与えるものは、自分の身の回りから極力排除しなければならないのです。 性格が悪いと言われる人は、まずここから直さないといけません。 人に悪い印象を与えるものを身に纏っていながら 「中身を見てくれ!」 というのは通用しないのです。
 そしてさらに大事なことは、そういった自分の悪いところを刺激してしまう人物を自分の身の回りから遠ざけてしまうことです。 たとえ親兄弟といえどもです! これをまず最初にやらなくてはならないのです。

 人間の性格というものは、これら外側に現れてくるものすべてを総合して判断されます。 決して 「性格そのもの」 なるものがあって、それをもとに判断しているわけではないのです。(ですから、性格とは見ている人の判断のうちに存在するもの、見ている人の判断そのものと言うこともできます。 つまり、その人間をどう見ているかという心の表現でもあるのです。 人を判断するということは、見ている人自身の性格も問われているのです。)
 女性は髪型一つ変えただけで人格が変わるとよく言われますが、それも決して理由のないことではありません。 外見が変われば人格が変わるのです。 周りの評価も変わるのです。 だからこそ、外見は大事なのです。
 つまり、外見とはその人間の性格そのものなのです。
 魂(心)というものはもちろん大事です。 しかし、それは外見や行動によって示さなければ意味がないのです。 外に出てこない思想は、およそ思想とは呼べません。 外見上の美しさが正当に評価されないということは、実は内面の美しさも決して評価されないということでもあるのです。

 美しい外見はそれ自体で 「わたしに純粋な愛をください」 「わたしを無条件に愛してください」 という立派なサインになります。 どんなに高潔で道徳的な行いよりもはるかに強烈なサインです。
 このような強烈なサインを受け取ると、人はしばらく動けなくなります。 一切の善悪の思考判断が停止し、意識のすべてがその人間に注がれるようになります。 どんなに抵抗しようとしても無駄なのです。 「美の専制」 という言葉がありますが、あれはまさにこのような状態のことを言うのです。

 美しい外見が身に付くようになると、自分のいいところがよく見えてきます。 そして、自分にいいところを見つけた人間は必然的に他人のいいところも積極的に見つけたくなります。 こうして自然に他人と純粋な愛を受け渡しする環境が整ってきます。 これがいわゆる 「愛と信頼と美の関係」 の基礎となるものです。
 このような関係の中に入ると、生きているだけで周りから純粋な愛情が手に入るようになります。 逆に、邪悪で不純な動機を持った人間は近づいてこなくなります。 また、純粋に外側に表れたものだけを信じられるようになるので、物事の裏を読むということが無くなります。 人を素直に信じられるようになるのです。 また、理性と感情の対立が無くなりますので、自分の気持ちに正直に生きられるようになります。 直感も冴えてきます。 そうすると、人選びを間違えなくなります。 自分にとって本当に大切な人、自分にとって害をもたらす人が瞬時に判断できるようになるのです。
 こうして自分自身の良い所がどんどん引き出され、さらに自分の魅力が増していく、ということになるのです。

 そういう人間に向かって 「外見よりも中身」 などと主張することは、まさに最大級の冒涜なのです。 「存在するな!」 と言っているようなものです。 そして、そういうことを言う人間に限って、自分の外見に自信がないものです。
 自信の無さは腐敗と解体の兆候です。 自分に自信がないとまず顔が崩れてきます。 そして体型が崩れてきます。 老化が急激に進みます。 髪型や服装も荒れてきます。 奇抜なアクセサリーを身に付けたがります。 交友関係も乱れてきます。
 そして、自分自身に対する信頼や自信の欠如は、次第に世の中に対する不平不満に変わり、やがて怒りと不信のサインとなって外見に表れてきます。 そうなれば当然、ますます人から愛されなくなります。
 だからこそ、自分に自信のない人間は 「外見で判断するな! 中身で判断してくれ!」 と言うのです。 外見が価値判断の基準になることを最も恐れているのです。 中身という 「目に見えないもの」 で判断してもらわないと、現実世界での自分自身の居場所が失われてしまうからです。
 こうして自分自身にも他人に対しても嘘を付き続けていく以外に生きる道が無くなっていきます。 自分自身に信頼や自信が持てないのですから、当然、人のいいところを見ようとせず、アラばかりを探すようになります。 このような世界観からは人間信頼や励まし合いの関係など生まれようはずがありません。 こうして何から何まで悪い方へ悪い方へと流れていくようになるのです。

 外見に自信のない人間は、他人の外見のみならず、その人間の長所や功績というものをなかなか認めようとしないものです。 認めれば即、相手が上、ということになってしまうからです。
 したがって、自分の外見に自信がないと、他人の幸福を願うことができなくなってしまうのです。
 こうしたことから引き起こされる最大の悲劇は、人と悦びを共有することができなくなってしまうことです。 先ほど述べた、親の子供に対する嫉妬(特に母親の娘に対する)の根は、まさにここから始まっているといっても過言ではありません。 親が自分の容姿はもちろん、その器量や愛情の深さにおいて絶対的な自信というものがない限り、子供と悦びを共有し合うことも、子供の幸福を願うこともできなくなってしまうのです。
 悦びは人に生きる意欲をもたらす最大のエネルギー源です。 そうした悦びを他人や自分の子供と分かち合えなくなることは、その人間を社会的にも家庭においても孤立させ、生きる意欲も徐々に失わせていく結果となります。 子供の表情に生き生きとしたものが感じられない家庭は、子供に自信がないのではなく、たいてい親の方が自信のない人間であることがほとんどなのです。

 自分の外見に自信があれば、必然的に他人の良さも素直に認めることができるようになります。 なぜなら、たとえ相手がその長所や功績においてどんなに上であっても、自分の外見的優越性はそれによっていささかも揺らぐことはなくなるからです。
 外見こそは、他人の良さを認めることができるようになるための、たとえそれを認めても自分の優位が揺らぐことのない、誰もが認める、誰でも適用が可能な、誰もがその前にひれ伏すような絶対的な価値判断基準となりうるものなのです。

 それはなぜか。 まさにそこにあるものだからです。 嘘偽りのない神聖なものだからです。
 だからこそ、美しい外見はそれ自体が 「神の証し」 なのです。 それは自然の摂理に最も適(かな)ったものであり、自然のあるべき姿そのものなのです。
 そして、優れた外見がしっかりと身についてこそ、初めて自信というものが芽生えてくるのです。 この自信こそは人の悦びに共感し、人を愛し、人の幸福を願うことのできる最大のエネルギー源となるものなのです。
 こうして、人は自然の摂理に合致した永遠の存在となることができるのです。


人間にはもともと寿命というものはない

 人間にはあらかじめ二つの運命が約束されています。 うんと幸福になるか、あるいは、うんと不幸になるかのどちらかです。 中間はありません。 中間を歩むことはあっても、最終的には必ずどちらかの道を選ぶことになります。
 たとえ不幸のどん底にあっても、毎日の生活の中で小さな幸せを見つけようと努力する人は、将来必ず大きな幸福を手にすることができます。 逆に、適度に不幸な方が自分にとっては丁度いいと思っている人は、将来必ず大きな不幸に見舞われることになります。 その中でも最大の不幸は 「死」 です。

 人は自然の摂理に則った生き方をしているかぎり、生きる意欲が失われることはありません。 したがって、人間が自然に老化して死んでいくなどということは本来ありえません。 死には必ず理由があるのです。 不自然な生き方、不幸を不幸とも思わない生き方をしているからこそ病気になり、老化し、死に至るのです。
 そうです。 生きんとする意志、すなわち意志の力が失われない限り、人は永遠に生き続けることができるのです!

 「人間を含めた生物には、もともと寿命というものはない。」
 これが 「意志の力が肉体を変える」 というわたしの主張から導き出された最も重要な結論です。(ただし、生殖上の特性から宿命的に寿命が定められている生物もいます。)
 この結論に決定的な確証を与えてくれたのは、ある一冊の本でした。
 本の題名は 『カラスの死骸はなぜ見あたらないのか』、著者は、あのUFO番組ディレクターでお馴染みの矢追純一氏です。
 氏は、その本の中で次のように述べています。

 あなたは、カラスの死骸を見たことがありますか?
 (中略)
 おそらく大部分の人が、「そういえば……ない」 ということに気づくでしょう。
 「いいや、見た」 という人も、たぶん一回か二回。 それも、「クルマにひかれた」 とか、「空気銃で撃たれた」 とかの事故死。 でなければ、たんに 「地面に散らばった羽根や骨を見た」 にすぎない場合が多いはずです。
 不思議なことに、カラスが死んで、そのままの姿で地面に横たわっているのを見た人は、まったくといっていいほどいないのです。
 それはいったい、なぜでしょう?
 世の中には、目に触れるだけでも大変な数のカラスがいます。
 東京などでは増えすぎたカラスが、銀座あたりの生ゴミをあさって困る、といった 「カラス公害」 がマスコミで騒がれるほどです。
 なのに、”その死骸を見たことがない”というのはおかしなことです。
 私自身も、生まれてから今日まで、一度も見たことがありません。
 彼らは死ぬとき、いったいどこへいってしまうのでしょうか?

─まえがきより引用─

 氏はその理由として、まず次の五つの可能性を挙げます。

 (1)カラスは死期が近づくと、どこか人目につかないところへいって死ぬ─
 (2)大きな鳥が食べてしまう─
 (3)共食いしてしまう─
 (4)猫や犬が食べてしまう─
 (5)死骸が腐敗して自然に土にかえる─

 しかし、これらの仮説はいずれも確証に欠け、実際、氏もそう結論付けています。 矢追氏はこの本の中では最終的な結論は出してはいないのですが、これらの仮説に替わる一つの説明として、別の人物が提唱している 「波動法(あらゆる物質はエネルギー波動の振動数の変化によって消えたり現れたりする)」 なるものを紹介していますが、これはあまりにも突飛な理論で、当然ながらまともにとり上げるわけにはいきません。
 もともと動物の寿命というのは、一般家庭や家畜や動物園や研究所など、人間の飼育下で観察された動物のデータをもとにして計算されています。 つまり、それ以外の動物についてはほとんど当てずっぽうだということです。 自然状態での野生動物の寿命というのは、実はあまり良く分かっていないのです。
 しかも、自然状態ではどの動物でも死骸を見かけることはほとんどないのです。 あるのは他の動物に食べられた後の死骸です。 餓死した死骸もありますが、それも極めてまれなケースです。 あの象の場合でさえ、死ぬときには 「象の墓場へ行って死ぬ」 などと言われていますが、象の墓場を見た人など実は一人もいないのです。

 では、一体どうしてカラスの死骸が見当たらないのでしょうか。
 しかもカラスだけではないのです。 都会にはスズメもいます。 ハトもいます。 ツバメもいます。 その他多くの種類の鳥達がいます。 もし、これらの鳥が平均2〜5年ほどで寿命を迎えるとすれば、これらすべての鳥の死骸があちこちに転がっていなければならないはずです。 しかし、そうした鳥の死骸をほとんど見かけることがないのです。 なぜでしょうか。
 もうお分かりですね。 そうです。 死なないから死骸がないのです。
 かれらにはもともと寿命というものがないのです。 いや、鳥だけではありません。 人間も本来そうなのです。 生物にはもともと基本的に寿命というものはないのです。 寿命があることの方がおかしいのです。 生物はえさと環境に恵まれていれば、永遠に生き続けることができるのです。 生物とは、もともと永遠を目指す存在なのです。

 ここで、皆さんの中には一つの疑問が湧いてくるかもしれません。 つまり、個体が死なないで子孫を作り続ければ、その種は増え続ける一方では? という疑問です。
 実際、数は増え続けます。 そして、えさが確保できなくなった個体は、もとの環境を離れて別の場所で暮らすようになります。 生物界は、まさにこの繰り返しなのです。
 そして、移住もままならず、食糧の確保もままならなくなった時、そこで初めて死が訪れるのです。 ほとんどの場合、大量死という結末を迎えます。(それは人間も例外ではありません!) つまり、えさが確保できなくなった時点で死を迎えるのです。 決して寿命を迎えたから死が訪れるわけではありません。 したがって、カラスの場合、えさが豊富で天敵がまったくいない都会では死は訪れません。 永遠に生き続けます。 だからこそ死骸が見当たらないのです。

 では、人間に寿命というものが訪れるようになったのは、いつ頃からでしょうか。
 それは、おそらく人類が農耕を始め、共同体化し、法を作り、人々の間で契約的な関係がはびこった時、すなわち人々の間に愛と信頼と美の関係が薄れ、戦争が頻発し、疲れた表情を見せる人間があちらこちらに現れ、死というものが偶然から必然的な出来事へと移行したときに、初めて人々の間で寿命というものが意識され始めたと考えられるのです。
 農耕こそ人類の不自然さへの第一歩でした。 田畑を耕すというのは、一種の生態系の破壊です。 大変な重労働です。 人手も要ります。 作業手順や日程も決めなくてはいけません。 略奪からも守らなくてはいけません。 したがって人々の高度な組織化が必要です。 本人がいくらやりたくないと言っても強制的に組み込まれます。
 こうして一種の契約に基づく社会というものが形成されるようになりました。 そして、ここから国家や戦争というものが付き物になりました。 人々が自然との共生をやめ、個人の良心や自由を守り抜く 「愛と信頼と美の関係」 から、自然を積極的に破壊し、食糧を多く確保するためには個人の自由は多少なりとも制限されるべきであるとする 「共同体との契約関係」 に移行した時、そこで初めて寿命というものが発生したと考えられるのです。

 つまり、人間が社会というものを形成した時に初めて寿命が発生したのです。 それまでは寿命というものはなかったのです! あるのは不慮の死だけでした。 歳を取れば誰でも死を迎えるという老化の観念すらありませんでした。 老人や大人や子供という区別もありませんでした。 病気も何か偶然的なものによって引き起こされるのではなく、本人の意志の衰退が原因と考えられました。
 そこでは、ただひたすら永遠を目指すことが、生きることだったのです。 自然界の法則に適った生き方をしている限り、死は訪れませんでした。 自然に死ぬなどということは決して無かったのです。

 実は、契約関係というのは人間に老化をもたらす最大の元凶なのです。
 政治や法律に代表されるタテ方向の命令と服従の関係、あるいは商業に代表されるヨコ方向の繋がりの関係は、すべて契約関係に基づいています。 契約関係というのは、一見生活が保障されていて安全確実に見えますが、もともとお互いの生きる意欲を膨らませるようなプラス志向の関係ではありません。 それは別の共同体からの攻撃の回避や既得権益の確保という点では何ほどか意味のあるものではあっても、基本的には個人の人生から悦びや感動を奪い取ってしまう関係なのです。 一番いい状態がプラスマイナスゼロにしかならないのです。 お互いの真の悦びを高め合うことのない、下降線をたどっていくだけの関係なのです。 だからこそ人は老化するのです。

 あえて言うなら、鳥かごの中で飼われている鳥、水槽の中で飼われている魚と大して変わらない生活なのです。 鳥かごや水槽の中で飼われている状態というのは、鳥や魚にしてみれば明らかに異常状態です。 このような状況下では、どんなに豊富にえさをやっても、どんなに清潔にしても、やがて病気にかかり、死んでしまいます。
 人間についても同じ事が言えます。
 つまり、文明という檻の中での生活と寿命とは切っても切れない関係にあるのです。 すべての人間がお互いの生きる意欲や悦びを削る方向で生きているので、結果として、疲れた人間しか存在しなくなるのです。 いや、むしろ疲れた人間こそが社会の上層部を形成することになるのです。
 したがって、健全で自然な欲求に生きる人間であればあるほど、生きてはいても、生きている実感が湧いてこないという矛盾が生じます。 人生から悦びと感動を徐々に奪われていくので、ある一定の年月が過ぎると、それ以上生きる意欲を膨らまそうという気が起こりません。 そうしていつか生きんとする意欲もゼロになり、やがて死を迎えるのです。

 このようなことになる最大の原因は、言うまでもなく純粋な愛情の欠如です。 社会構造上、与え尽くしの愛が出せない状態になっているからです。 契約関係というのが、それを不可能にするのです。
 文明生活が進歩すればするほど、契約的な愛しか知らない人間が増えてきます。 真に愛情深い人間は社会の隅っこへ追いやられていきます。 人々の間に争いが絶えなくなります。 ストレスも溜まってきます。 そして、社会全体の老化の度合いが増していくのです。
 このような契約的な環境で育った子供は、早いうちから大人びた印象を周りに与えます。 妙に大人びた表情や態度を示すようになります。 すなわち、この段階で早くも老化が始まっているということです。 昨今、幼い子供たちの間で流行っている派手な化粧やメイクも、あれは少年少女特有の美しさを際立たせるものというよりは、むしろ老化現象の一種と捉えるべきなのです。 こんな幼い子供たちの間にまで老化現象が進んできてしまっているということなのです。

 しかし、希望が無いわけではありません。 もともと老化や死には必ず理由があります。 純粋な愛の欠如による意志の衰退こそ老化や死をもたらす最大の元凶なのです。 愛のない生活を送っているからこそ、人間は老けてくるのです。 決して歳を取ったからではありません。
 逆に、愛と信頼と美の関係の中に生きていれば、永遠の生が可能になります。 人と人とが与え尽くしの愛によってお互いの悦びを高め合う永遠の関係として続いていきます。 お互いがお互いの悦びを高め合い、お互いがお互いの幸せを願う 「わたしもうれしい、あなたもうれしい」 の関係こそ、若々しさの源となるものです。
 したがって、このような愛と信頼と美の関係を取り戻し、生きる意欲が回復してくれば、若返りも十分可能であるということなのです。

 生きるとは、まさに河の流れに逆らって上流へと泳ぐ行為であるといっていいでしょう。
 そのままだと確実に下流へ流されます。 深い傷を負えば一気に流されます。 そして死を迎えます。
 しかし、強い意志の力を持つ者は容易に流されません。 いつかは上流へと泳ぎ切り、山頂へたどり着きます。 それが 「成熟する」 ということです。
 一度成熟した後でも、今度はそれを維持しなくてはいけません。 山頂は気象条件が厳しいので、雨風を凌がなくてはいけません。 また、後から這い上がってくる敵を蹴散らさなくてはいけません。 病気とも戦わなくてはいけません。 場合によってはそれらとの戦いに負けて再び流されることもあります。 しかし、意志の力が失われなければ、再び這い上がってくることが可能なのです。 これがいわゆる 「若返り」 という現象です。 こうしていつでも敗者復活が可能になります。
 若さとはまさに、自分自身の肉体がその本来有るべき姿において、あらゆる困難に打ち勝ち、なおかつ自分の理想の姿を維持している状態のことを言うのです。 それを可能にするものこそ、意志の力なのです。

 現代医学は、そもそも病気や老化に対する考え方が根本的に間違っています。 意志の衰退こそ病気や老化の真の原因なのです。 意志が衰退するからこそ、免疫力が低下し、病気になるのです。 ウイルスに感染するから病気になるのではありません。 意志の力が強ければ、たとえウイルスが入ってきたとしても発病しないのです。
 ガンやエイズについても同じ事が言えるのです。 ガンやエイズに罹ったからといって、すべての人間が死ぬわけではありません。 ちゃんと回復する人間が少なからずいるのです。 これもまさに意志の力のなせる業なのです。
 よって、病気とは一つの警告なのです。 「今の自分の生き方を改めよ」 「自分を病気にしてしまうような境遇から、思い切って自分を遠ざけてしまえ」 という本能の叫びなのです。 病気をもたらす真の原因が自分自身であれば、その病気を治すことのできる最良の医者もまた自分自身なのだということを教えているのです。 自分の体のことは自分自身が一番よく知っているという大原則を忘れてはならないのです。

 人間は本来ありとあらゆる病気に打ち勝つ力を有しています。 その意味で、「病は気から」 というのは全く正しいのです。 いかに名医と言われる人が、どんなに最新の医療施設でどんなに最善の治療を行ったとしても、最終的にはやはり、病気の回復とはその人自身の意志の力に委ねられているものなのです。
 自分の体を他人(医者)に任せることがどれだけ危険なことか、まるで分かっていない人間が多いのは、実に残念なことです。 こうしたことで、どれだけ多くの人間があらぬ精神的ショックを味わったり、切らなくてもいい部分を切除されたり、果ては命までも奪われてしまったことでしょう! その無念の心中は察してあり余るものがあります。
 人間とは本来、優しい言葉をかけてもらったり、手を握られたり、抱きしめてもらうだけで、あっさりと病気から回復するものなのです。 悦びの共感こそ人間の生きる意欲の源であり、病気や老化を防ぐパワーとなるものだからです。 生きんとする意志は、薬や外科治療だけでは決して与えることはできません。 それは人から人への熱い思いがあって、はじめて呼び起こすことが可能となるのです。

 生きているとは、悦びがある、ということです。
 そして、その悦びの中でも最大のものが 「異性を愛すること」 です。 異性を意識しなくなった瞬間から老化が始まるといっても過言ではありません。 人生最大の悦びを失った人間にはやがて死が訪れます。 だからこそ、男と女はいつまでも悦びを分かち合おうとするのです。 人間とはそういうものなのです。
 この愛こそは人間に永遠の生をもたらす源です。 たとえ大量死が起こったとしても、人類が存続していくのは、この愛があるからなのです。

 このまま人々が契約的な関係を続けていって経済的な繁栄を謳歌しようとすれば、いつか必ず破局が来ます。 増えすぎた種は 「大量死」 を迎える時が必ず来ます。 これが自然界の掟です。 その時、生き残れるか、生き残れないかを決めるのは、与え尽くしの愛を出せるかどうかにかかっています。 見返りを求める愛しか知らない人間は真っ先に見捨てられます。
 それはなぜか。 契約関係というのは、もともとその場しのぎの関係として作られたものだからです。 愛と信頼と美で繋がった永遠の関係ではないからです。 悦びが最初から失われた関係なのです。 だからいつでも取り替えがきくのです。 だからお互いの命も尊重されません。 だからいざという時には役に立ちません。 すぐに仲間割れし、共倒れになります。
 これはいわば 「報い」 なのです。 不幸を不幸と感じないこと、不自然な生き方をしていること、純粋な愛を信じないこと、人を愛せないこと、その最大の報いこそ 「死」 なのです。


『天下布美』 の誓い ─愛と信頼と美の世界を作るために─

 わたしは社会を変えるための二つの法を提示しました。 一つは美しい外見、もう一つは永遠の生です。
 外見を変えるということは、現実を変えるということです。 そして、現実を変えるということは、世界を変えることでもあるのです。 そうした一人一人の努力がやがて実を結んで、愛と信頼と美の世界を築くことができるようになること、そうした自然の摂理に合致した生き方をする人間だけが永遠の生を謳歌できる世界を作ること、これがわたしの描いている夢です。
 そして、それは十分に可能であるとわたしは考えています。 それはなぜか。
 エロスと不老長寿こそは人間の脳髄を最も刺激するものだからです。

 エロスと不老長寿こそ、人々の間の不幸の連鎖を解く鍵となるものです。 人々に生きる意欲のきっかけを与えてくれるのは、いつでもエロスと不老長寿への願望なのです。 日常生活のすべての活力の源はここから始まっているといっても過言ではありません。
 それはエロスを満たすことから始まります。 まずは美しい外見を身に付けること。 そして愛し、愛されることの実践です。 過去に不快な体験(すなわち誰からも愛されなかったという)を持つ人間は、そうやって過去の嫌な記憶を 「快の体験」 で塗り替えていくことによってしか幸せを手に入れる方法はありません。 不快からの逃走や現状維持だけでは人は決して幸福にはなれないのです。
 そして、そのような愛し愛されることの実践によって作られる 「愛と信頼と美」 の連鎖こそが、人々の間に悦びの関係をもたらし、永遠の生を謳歌することのできる世界を作る原動力になるものと信じています。

 そして、人々が愛と信頼と美によって結ばれるようになれば、人々の間からあらゆる不自然さが取り除かれることになります。 そうなれば当然、農業も、商業も、法律も、国家でさえも、その存在理由・存在価値が無くなり、やがて廃(すた)れていくことになるでしょう。 これは間違いありません。
 もちろん、それによって今までの豊かな生活は捨てなければならなくなります。
 しかし、そうした豊かな生活と引き換えに犠牲にしてきた本来の幸せな生活、すなわち愛と信頼と美に満ち溢れた生活へと回帰する鍵を手に入れたからには、もはやこれ以上経済的繁栄にしがみつく必要がどこにあるというのでしょうか。 これ以上自然破壊する必要がどこにあるというのでしょうか。 これ以上無益な戦争を繰り返す必要がどこにあるというのでしょうか。 この期に及んでも、まだ契約関係というタテとヨコの抑圧の中で、偽りの愛に生き、やがて老い、死を迎えようというのでしょうか。 答えは一つであることは言うまでもありません。

 不幸の連鎖はわれわれの代で断ち切ろう! 愛のある世界をわれわれ自身の手で作るのだ!

 こうした思いを、わたしは 「天下布美」 という言葉に託しました。
 天下布美とは、天下に美を布(し)く、つまり、世界に愛と信頼と美を広める、ということです。 これこそがまさしくわたしの 「第一希望」 なのです。
 この希望が叶えられる日まで、わたしの戦いは続きます。 もはやこの流れはもう誰にも止められません。 すべては必然によって動いていきます。 仮に、わたしが志半ばで倒れるようなことがあっても、その意志は必ず誰かが引き継いでくれることでしょう。
 なぜなら、この流れは自然の法則に則ったものであり、宇宙の法則にも則ったものだからです。


『かんたん!筋肉緊張ダイエット』管理人:Tarchan




<参考文献>

家族のなかの孤独 ミネルヴァ書房
女性の「オトコ運」は父親で決まる 二見書房
母親よりも恵まれた結婚ができない理由 二見書房
「子どもを愛する力」をつける心のレッスン 講談社
娘が嫌がる間違いだらけの父親の愛 講談社
思い残し症候群 NHK出版
娘の結婚運は父親で決まる NHK出版
人はなぜ人間関係に悩むか あさ出版
男と女のラブゲーム STEP
他人にいい顔をして何になる ドリームクエスト
自分にウソをついて何になる ドリームクエスト
身近な人との人間関係につまずかない88の法則 大和書房
 以上、すべて岩月謙司 著


心の教育 あしたへの風 内田玲子、岩月謙司、平井光治、板野敦子 共著
 発行:アートヴィレッジ


カラスの死骸はなぜ見あたらないのか 矢追純一 著。 発行:雄鶏社
 (※ KAWADE夢文庫からも出ています。発行:河出書房新社)

 ※ 敬称略




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