近況コラム



2003年元旦号

Tarchanより新年のご挨拶

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 このHPも来月2月で開設以来7年目を迎えようとしています。 アクセス数もおかげさまで去年の12月になんと100万件を突破いたしました。 ここまで来れたのもHPを見てくださっている皆さんのお力添えがあったからこそだと思います。 ここに慎んで新春のお慶びとともに御礼申し上げます。




自分は生きている ─脱毛症その後─

 去年7月に脱毛が発覚して以来、約半年が経ちました。 その間、仕事を一切止め、栄養や睡眠をたっぷりと取り、あらゆる不摂生を断ち、常に自分らしい外見を心がけるなど、脱毛を克服するための最善の努力を尽くしてきた結果、10月にはようやく脱毛も小康状態になり、また、11月に入るとあちこちから産毛も生え始め、事態が好転しつつあることを実感しました。 特に、おでこの生え際からぽつりぽつりと新しい産毛が生えてきたことは、若返りを予感させるうれしい兆候ということで、それまでのわたしの暗かった気分を一掃させました。
 もちろん、見た目にはまだまだ劇的な変化は見られないので(写真12月中旬)、予断は許しません。 これからが本当の反攻の始まりと肝に銘じ、長期戦を覚悟で引き続き心のリハビリに専念するつもりです。

 はっきり言って、最初の3ヶ月は地獄でした。 心のリハビリを開始しているにもかかわらず、髪は通常でも一日50〜100本は抜けてしまうので、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と経っていくうちに見た目は徐々に悪くなっていきました。 髪の毛はいったん抜け落ちると3〜4ヶ月たって再び同じところから生えてくることは分かってはいても、日々薄くなっていく自分の頭を鏡で見るたびに気分は限りなく落ち込みました。
 しかも、いつリハビリの効果が現れるのか、果たして心のリハビリは本当に効果があるのかどうかも分からないのです。 ひょっとしたらこのまま何の成果も挙げることなく、見るも無残な姿になってしまうのでは・・・何度そのような恐怖に駆られたことでしょう!
 そのため、わたしは今の自分の髪の状態を過剰に意識することがないよう、HPの管理を含め、読書や音楽鑑賞、サイクリングや山登りなど、あらゆる自分が楽しいと思えることに没頭するように努めました。 かつてのわたしは、悦びを得ることに関してもっともっと貪欲なはずでした。 そういう貪欲さを仕事を続けているうちにすっかり失ってしまっていたのです。 とにかく、今のわたしの生活にはまだまだ悦びが足りないように思えたのです。

 そんな中、脱毛が顕著になってきたからといって、慌てて髪を短く切ったりしなかったことは、わたしにとって賢明な選択でした。 よく禿げが目立ってきたからといって短く刈ってしまう人がいますが、あれはむしろ逆効果です。 あくまで現状維持が鉄則です。 少しでも髪が生えている(残っている)という感覚を大事にした方がいいのです。 あとは切らずにできるだけ長く伸ばすことです。
 わたしも今回の事件以来、もう一生髪は切らないことにしました。 とにかく不自然なことは今後一切しないと心に固く誓いました。 髪は本来、伸ばすに任せておくのが一番自然な姿であり、ハサミを入れるのは不自然な行為だと考えたからです。(例えば、日本でも昔は、人生における重大な局面や新たな決意を示す時など、「死と再生」 を想起させる場面以外は、むやみに髪を切ったりしなかったものでした。 断髪という行為が 「儀式」 として成り立つほど重要な意味を持っていたのです。)
 また、前髪を必要以上に短くしたり、むやみに後ろになでつけたりすることがわたしの体質に合わないことも、今回はっきりと分かりました。 すべての人がそうだとは限りませんが、前髪を自然に垂らしておくことは 「世の中に渦巻く怒りから自分を守る」 という大切な意味があるような気がしてならないのです。 女性が男性に比べて髪を長く伸ばすのも、外出時に帽子をかぶったり、バンダナを巻いたりする人が多いのも、同じような理由からだと思われます。 わたしが脱毛発覚後、すぐに前髪を下ろしたのも、そうした理由があります。 少しでも世の中に渦巻く怒り(ストレス源)から身を守るためです。

 ところで、髪の毛の脱落は一体何を象徴しているのか、わたしは改めて考えてみました。 およそ髪の毛が抜け落ちて喜んでいる人間など一人もおりません。 薄くなった頭髪を目の当たりにすれば、誰でも必ず気分が落ち込んできます。 生きる気力も失ってきます。 内部疾患と違って、絶えず人目に触れる部分であるだけに、その心理的なショックは計り知れないものがあるのです。
 では、そのような深刻な気力低下をもたらすほどの、髪の毛の脱落の真の意味とは一体何でしょうか。
 それは 「頭を切り替えろ!」 という神からの警告です。 この場合の頭とは、今の生き方、考え方、心のあり方のことです。 今までの生き方が間違っているから、それを改めろ!という戒めなのです。 もう一度赤ん坊に返って一からやり直せ、ということなのです。
 なぜなら、赤ん坊は周りから100%愛を受け取ることのできる存在だからです。 病気や疾患に苦しんでいる人は、実は病気そのものに苦しんでいるのではなく、愛が受け取れない状態になっている自分に苦しんでいるのです。 自分で知らず知らずのうちにそのような状況に追い込んでしまうのです。 わたしの場合は、「大人ぶった態度や考え方」 というのが、まさにそれでした。

 すべての病気や疾患には、多かれ少なかれ、このような神からの警告の意味が含まれています。 もっともっと幸せになる能力があるのに、それを怠っているから、神はあえて罰を下すのです。 そして、その原因を自分で突き止めて、自分で対処しろ、と言っているのです。 それが神からの警告の真意です。 頭髪の場合はそれがより根源的な形となって現れたものです。 ですから、今までの生き方や考え方を180度変えるほどの思い切った決断をしないと治らないということです。 ゆえに、髪の毛の脱落は神からの罰としては最大級のものと言えるでしょう。 まさに、「髪=神」 なのです。
 したがって、その対処を他人任せにした時点で警告の意味が失われてしまいます。 神を冒涜するにも等しい行為です。 だからこそ、わたしは医者などには頼ろうとはしませんでした。 「すべての原因は自分自身の中にある。 それを自分で探らなくては根本治療にはならない。 これは神が自分に与えてくれた試練なのだ。」 わたしにはそう思えたのです。

 ともかくも、今回の事件は自分自身の生き方を見つめ直す良い機会となりました。
 それまでのわたしは、ありのままの自分をさらけ出すことについてあまりにも臆病でした。 本当の自分はむしろ隠すものであるという誤った価値観に囚われていました。 しかし、これはあくまで守りの姿勢でしかなかったのです。 自分自身の臆病に対する言い訳に過ぎなかったのです。 無用な仮面を被り、必要以上に周りに合わせ、肝心の 「自分が今なすべきこと」 についてはまるで無頓着だったこと、そして俗世のしがらみに惑わされ、本来の自分自身を見失っていたこと、一言で言えば、自分らしく生きていなかった、ということでしかなかったのです。

 去年の秋、わたしはまるで何かに取り憑かれたかのようにあちこちの山に登りました。 少しでも 「自分は生きている」 という実感を味わうためでした。 一歩一歩土を踏みしめることによって、自分が自然と一体化している感覚こそは、それまで自分自身のことすら考える時間も余裕もなかったわたしにとっては、ぜひとも必要なものでした。 何も考えないで、ただひたすら登り、草を掻き分け、時には迷い、ついに頂上にたどり着いて悦びを噛みしめる、それはまさに人生の縮図そのものでした。

 そうした中で、わたしは改めて気づきました。 もうすぐ35にもなるこのわたしが、こうして仕事を辞め、先々の不安など考えることなく山登りに没頭することが出来るのも、ひとえにHPを見てくださっている皆さんからの温かい支援があったからではないか。
 わたしに足りなかったのは自分自身の幸福をとことんまで追求しようとする勇気でした。 しかし、HP開設以来満6年になり、皆さまからの数多くの反響や温かな声援を頂くようになって、今、わたしはその勇気を皆さんからもらっています。 ほんの数年くらい前までは怖くて出来なかったことが、今なら出来そうな気がするのです。
 どんなに孤独でいようとも、どんなに奇異の眼差しを向けられようとも、どんなに笑われようとも、「それでも自分自身を見失わなかった」 「それでも自分自身の悦びを追求し続けた」 という誇りこそが、自分に真の生きる勇気を与えてくれるものなのだということ、そして 「永遠の若さ」 につながるものなのだということを、今回の事件は教えてくれたような気がします。





第4版 [2004年8月31日 第3回改訂]

2003年・新春特別コラム

〜新世の日本人として3〜

『永遠の若さのために』

 「しかし思え、わたしの兄弟たちよ。 獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。 それは何であろう。 なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。
 小児は無垢である、忘却である。 新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」 という聖なる発語である。
 そうだ、わたしの兄弟たちよ。 創造という遊戯のためには、「然り」 という聖なる発語が必要である。 その時、精神はおのれの意欲を意欲する。 世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
 精神の三様の変化をわたしは君たちに述べた。 どのようにして精神が駱駝になり、駱駝が獅子になり、獅子が小児になったかを述べた。」

ニーチェ 『ツァラトゥストラかく語りき』 より

まえがき

 人は必ず老い、そしていつかは死ぬ、といわれます。 確かに、わたしたちの周りでは 「死」 は日常茶飯事に起こっています。 その大半はいわゆる加齢に伴う病気で亡くなる人たちです。 こうした現実を目の前にした時、人は誰しも 「老いと死」 は逃れようのない宿命であると思うのは無理からぬことかもしれません。 しかし、果たしてそれは真実なのでしょうか。

 去年の事件以来、わたしは老化というものについて真剣に考えるようになりました。 老化など自分にとって縁のない別次元の話だと思っていたわたしにとって、まさに不意をつかれたようなショックでした。
 今回のコラムでは、そうしたわたしの体験を基に、いかにして若さを維持するか、いかにして永遠の生を手に入れるかという、人類にとってのまさに永遠不変のテーマを追求してみたいと思います。
 ただし、これから述べることは、こういう食材が長寿に効く、というような類の話ではありません。 また、体のしくみを詳細に分析し、若さを維持するための方法論を科学的に明らかにしていくという試みでもありません。 そういうものを期待しているとすれば、まったくの的外れとなってしまいます。
 そうではなく、もっと根本的な問題、すなわち、人の生き方そのものを問題とした、むしろ、これまで多くの人々がかたくなに見まいとしてきた、本来誰の目にも明らかであるはずの真実を白日の下にさらすという、極めて 「哲学的な」 問題なのです。

 自然界を見渡してみると、人間の常識が当てはまらないケースが多々あります。 例えば、樹齢何千年にもなる縄文杉や、二千年以上も前から地中に埋もれていたハスの実が、その後見事に開花した大賀ハスの例など、その強靭な生命力には驚くばかりです。
 一方、動物に目を転じてみると、これまた驚くべき数々の事象が浮かび上がってきます。
 その一つの例として、わたしは前年のコラムで、「カラスの死骸がなぜ見あたらないのか」 という素朴な疑問を提示しました。 そして、それに対する明確な答えとして 「カラスが死なないからである」 という結論を出しました。
 こうした事実を突き詰めていくと、次のことが明らかとなります。 すなわち、自然界の中では人間だけが唯一自然と調和しない例外的な存在であり、人間を特徴付けているすべての性質とは、実は寿命というものを作り出しているまさに当のものなのである、ということです。

 一体、何が 「万物の霊長」 でしょうか。 一体、人間のどこが他の動物よりも優れているというのでしょうか。 それはまさしく誤解も誤解、人間の側の勝手な思い込みであり、傲慢さを示すもの以外の何物でもなかったのではないでしょうか。 いや、ひょっとしたら人間とは、自然界の中で一番 「哀れな」 存在だったと言えるのではないでしょうか。
 ヒトもかつては自然と調和して暮らしていたはずです。 それがいつの頃からか、自然の摂理に逆うようになりました。 それまでの狩猟・採集生活を捨て、農耕や牧畜を始め、自然界の調和を乱すようになり、社会というものを形成し、自ら作り出した社会によってその行動の一切を縛られ、その結果として、寿命を迎えるようになったというのは、むしろ当然の帰結であり、報いでもあったのです。

 世の中には数多くの誤解や迷信がはびこっています。 「歳をとれば誰でも寿命を迎える」 という誤解はその最たるものです。 ゆえに、そうしたこれまで常識とされてきたもののいかがわしさやいい加減さによって、今までどれほど多くの人々が惑わされ、自分や他人を傷つけ、そして命を落としてきたか、そして、そうした常識をひっくり返すだけで、今まで眼前に広がっていた無味乾燥な世界が、どれほど劇的に変わり、どれほど平穏で、どれほど幸福に満ち満ちた世界に変わることができるか、それを明らかにすることがこのコラムの使命であると考えています。


すべては 「自分を愛すること」 から始まる

 自分を愛する、というと、なんだか自分勝手な響きがあります。 たいていの人は 「自分を活かすことは相手を殺すこと」 であり、むしろ 「自分を殺して相手を活かすこと」 が良識だと思っています。 しかし、それは大きな誤りです。
 愛とは我慢し合うことでも、犠牲を払い合うことでも、苦しみ合うことでもありません。 愛とは本来、自分にとっても他人にとっても気持ちいいものなのです。 自分を愛するように他人を愛すればいいのです。 あるいは他人を愛するように自分を愛すればいいのです。
 物事は何でもとことんまで追求すると、自分にとっても他人にとっても良い結果をもたらします。 究極の利己は究極の利他につながるのです。

 愛の基本は自己愛です。 自己愛とは、自分が一番好きなことをすること、自分に忠実に生きること、自分らしく生きることです。 自分独自の 「美学」 といってもいいでしょう。
 自己愛の反対が自己破壊となります。 自分を好きになれない状態が続くと、人は確実に自分を傷つけるようになります。 心だけでなく体も傷つけるようになります。
 自己破壊は周りからストレスを受けた時にも発生しますが、それは一時的なもので、実は大したことはありません。 むしろ、それによって自分らしさを失った時、自分で自分に嘘をつく時、不本意なことをしている時、自分のしていることに誇りが持てなくなった時、人は最も自分自身を傷つけます。 そして、こういう状態が長く続くと、人生から悦びと感動が徐々に失われていきます。 これがいわゆる病気や老化の源となるものなのです。

 人は第一希望を貫くことによってのみ、悦びが得られるようになっています。 したがって、第一希望においては常に攻めの姿勢でいなければならないのです。 言い換えれば、自分の美学を貫く、つまり 「自分が選んだものこそ一番である」 「これが本当の自分なんだ!」 という態度です。
 第二希望は自分自身に対する言い訳とともに発生します。 したがって、第二希望を選んでばかりいては、せいぜい現状維持にしかなりません。 第三希望からは収支がマイナスとなります。 人は何かをするだけでもエネルギーを使うからです。
 自分を愛するためには、第一希望をあくまで貫くことが必要なのです。 自分が好きなことをとことんまで追求することです。(ただし、それが自然の摂理に逆らうようなものであってはいけません。 例えば、他人を不幸に陥れておいて自分だけが幸福になるということはありえません。 他人に撒いた不幸は必ず回り回って自分のところに跳ね返ってきます。)

 第一希望を実行すると、あるがままの自分を受容することができるようになります。 そして、このような自己受容は、人を愛する時にも必要なのです。 なぜなら、愛するとは受容することであり、共感することだからです。 これができないと、そもそも励まし合いができないからです。
 自分を受け入れていない人間、すなわち自己不信、自己嫌悪、自己卑下の念を抱いている人間は、励まし合いをすることができません。 励まし合いをすることができなければ当然、悦びが生まれませんし、人を愛することもできません。 人を愛する悦びの何たるかを知らないと人からも愛されなくなるので、その反動で、自分と同じような怒りやさみしさを抱えた人間を求めるようになります。 こうして加速度的に愛情の飢餓感が増していき、ますます不幸を呼び寄せる体質となってしまうのです。
 不幸な人間は他人を幸福にすることができません。 むしろ嫉妬したり、妨害したり、中傷したりします。 人を幸福にしたつもりでも、実際にやっていることは、他人の幸福度を自分と同じか、あるいはそれ以下のレベルにまで 「引き下げる」 ことなのです。 まさに無償の愛ならぬ 「魔性の愛」 です。 不幸な人ほど、自分が不幸であることに気づいていませんし、他人を不幸にしていることにも気づいていないものなのです。

 幸福になるための道のりは決して平坦ではありません。 特に自分を愛することは、必然的に周りとの戦いになります。  まず間違いなく、不幸な人間たちから嫉妬されることになります。 だからこそ、人は命がけで自分を愛さなければならないのです。
 人間は基本的に忙しいものです。 だから、その都度その都度、第一希望を満たすような生き方をしないと、気がついた時には手遅れになってしまいます。 「一事が万事」という言葉がありますが、まさにその通りです。
 日常のほんの些細なことからでもいいのです。 絶えず自分の本当の欲求はどこにあるのか確認することです。 そして、周りではなく、自分に対して誇れる行為をすることです。 そうすれば悦びは自ずと手に入るようになります。 そして、周りもそんなあなたに暖かい手を差し伸べてくれるようになります。 なぜなら、幸福な人間しか人を幸福にできないことを、人は本能的に知っているからです。 こうして 「わたしもうれしい、あなたもうれしい」 という関係が出来上がっていきます。
 「自分が楽しんで、なおかつ、その悦びを他人にも分けてあげたい」─幸福の輪はこのようにして広がっていくのです。


生きる意欲は人からもらうもの ─愛の枯渇が死を招く─

 人はたいてい生きる意欲は自分自身の中から湧いてくるものと思っています。 しかし、実際はそうではありません。 どんなに一人の力で生きているように見えても、生きる意欲とは実は 「人からもらうもの」 なのです。
 自己愛を貫くには勇気が必要です。 その勇気は人からもらうことができます。 そうした人に生きる勇気を与える愛が、いわゆる 「無償の愛」 です。 無償の愛は親であったり、友人であったり、恋人であったり、あるいはまったくの赤の他人からのものであっても構いません。 また、年齢の上下も性別も関係ありません。 愛は誰からもらっても同じなのです。
 無償の愛は思春期くらいまでは比較的容易に手に入れることが出来ます。 しかし、それ以降は自分で努力しないと手に入れることが難しくなります。 逆にいえば、こうした無償の愛を他人から得られなくなった瞬間から、人は急激に老化していきます。

 生きる意欲、あるいは生命エネルギーと言ってもいいですが、その源は人からの愛です。 幼い時は親や祖父母や親類からの愛、大きくなってからも友人や恋人、あるいは見知らぬ人からの暖かい救いの手が、知らず知らずのうちに生きるパワーとなって、その人間を動かします。 幼い時の記憶というのはほとんど失われてしまいますが、「生きているだけでかわいいよ」 「生きているだけでうれしいよ」 という、かつて人から無条件に注いでもらった熱い思いが、いざという時に人を動かすのです。 たとえ無償の愛を注いでくれた人がこの世にいなくなっても、愛だけはしっかりと残ります。
 ここにこそ、愛し愛されることの本質があるのです。 愛は自分自身の中から自然に湧いてくるものではありません。 生まれた時からコツコツと溜め込んでいくものなのです。 人は愛を得るために生きているとも言えるのです。

 無償の愛は 「生きろ!」 という強烈なメッセージです。 愛は基本的に誰からもらっても同じです。 親でなければ駄目ということはありえません。 もともと人は親からの愛情だけでは足りないものです。 平均すると、親20人分の愛情を必要とします。(指の数と同じですね。)
 つまり、人間には親と同じように幸せを願ってくれる人が最低20人くらい必要だということです。 よりたくさんの人から愛情をもらうことができれば、人生の比較的早い段階から人を愛する側の人間となることができるのです。
 ですから、そういうエネルギーを他人からもらえないと、人は生きるのが辛くなってきます。 自分で自分を傷つけたりするような行動に出ます。 しまいには死にたくなります。 昨今、若い人の間で自傷行為を行う人が激増していますが、これも親だけの問題ではなく、むしろ親以外の人間から無償の愛を得にくくなっている状況が、このような悲劇を生み出している背景にあるといえます。

 何かを傷つけたいという衝動は、「怒り」 から生じます。 「悦び」 も 「怒り」 もどちらも人を活発にするという点では同じですが、決定的に違う点は、前者は自分をも他人をも幸せにするのに対し、後者は自分をも他人をも不幸に陥れる、ということです。 怒りによってなされた行為は、人を感動させることができません。 心に残らないのです。 したがって、生きる活力にはなりません。 次第に元気が無くなってきます。 心ある人は近づいて来なくなります。

 したがって、無償の愛が得られなくなった人間は、たとえニセモノと分かってはいても、他のことでその飢餓感の埋め合わせをしなければならなくなります。 その代表的な例は、いうまでもなく 「お金」 です。
 今の世の中には、お金にしか価値を見出せない人間、いわゆる契約関係的な世界観しか知らない人間がたくさんいます。 しかし、そうした人たちは、どんなにお金を儲けても、どんなに贅沢な暮らしをしても、どんなに話し相手に事欠かなくても、本当の意味で満たされることはありません。 逆に、無償の愛からどんどん遠ざかって、確実に生命エネルギーを失っていきます。 お金をいくら儲けても愛を蓄えたことにはならないからです。
 また、愛はお金を払えば手に入るというものでもありません。 したがって、お金を媒体とした関係だけでは真の悦びは得られず、生命エネルギーは失われていく一方となります。 なぜなら、見返りを求める愛は愛ではないからです。 いくらもらっても栄養にならないのです。
 人間には見返りを求める愛ではなく、無償の愛が必要なのです。 無償の愛でなければ栄養にならないのです。 無償の愛を受け取ることは、「生きろ!」というメッセージを受け取ることなのです。 だからこそ人は 「よし、もっと生きてやろう!」 という気になるのです。 これこそが永遠の生の源となるものなのです。

 無償の愛が得られないと、愛はいつか枯渇します。 人は現状維持するだけでも生命エネルギーを使うからです。 無償の愛を受け取る努力を怠っていると、早い人で10代、遅い人でも40代の後半には必ず生の倦怠期が訪れます。 愛の蓄えが底をついている状態です。
 人から愛されるためには、まずこちらから心を開かなければならないわけですが、心に怒りを溜め込んでいる人間はそれができません。 本当は無償の愛が欲しくて欲しくてたまらないのに、人に対して不信の目を向けていたり、自己嫌悪の念を抱いていると、いざ人から無償の愛を受け取っても、有難みを感じるどころか、それを無下に否定してしまうのです。

 ちなみに、こうした態度は、親から愛されなかった人ほど顕著になります。
 本来ならば、愛情飢餓に苦しんでいる人ほど、他の人から愛を得ることが容易なはずですが、実際には、親から愛されなかった人ほど親以外の人間から愛を受け取ろうとしなくなります。 人から愛を受け取るのが怖くなってしまうのです。 あるいはすべて嘘に見えてしまうのです。 本当は嘘をついているのは自分の方なのですが、幼い頃からの習慣によってニセモノの愛をホンモノ、ホンモノの愛をニセモノと言いくるめることに慣れてきたため、そうした嘘を認めるのがつらくなってしまうのです。 親の名誉を守ることが最優先となってしまうのです。 そして、自分よりもちょっと不幸な人間を見つけては、傷をなめ合うようなことばかりやって、その日その日をやり過ごしていくという悪循環に陥っていくのです。

 ちなみに、こうした自己欺瞞の態度を長い間続けていると、どういうことになるか。 岩月教授の極めて分かりやすい説明がありますので、それを紹介したいと思います。

『娘の結婚運は父親で決まる』 P.146〜147より引用。(岩月謙司著/NHKブックス)

 自己欺瞞の道を歩み始めた者は、人生のどこかの時点で、過去のすべてを捨てて軌道修正する勇気を持たない限り、自己欺瞞を守り通す人生にならざるを得ない。 ウソをウソで塗り固める人生になってしまうのである。 歳と共に自分の生き方に対して保守的になってしまう。 自己欺瞞を行う自分を肯定しようとする力がどんどん大きくなってしまう。 そうしないとウソが自分にバレてしまうからだ。 しかも、恐ろしいことに、自己欺瞞がバレないようにする方法が、さらなる自己欺瞞なのである。 もうこれ以上自分にウソをつきたくないと思っても、ウソをつかずにはおれなくなるのだ。 自我を安定させるためには、さらなるウソをつかざるを得なくなってしまう。 そのため、どんどんウソが増えて、ますます軌道修正するのがむずかしくなる。 悪循環である。 そして、ついに、自分がついたウソに苦しめられる日が到来する。
 人生から悦びと感動が消失してしまうのだ。 心のいのちを削る方向で生きてきたので、生きる意志はあっても、生きる気力がなくなってしまう。 また、生きている実感もゼロとなる。 悦びと感動は、生きる意欲そのものである。 エネルギーと言ってもよい。 いのちをふくらますエネルギーである。 それがなくなるので、やる気のパワーが落ちてきてしまう。 悦びこそ意欲の原点なのである。
 人間というもの、いのちを削ることをしているか、いのちをふくらますことをしているか、いずれかである。 いのちを削ってばかりいたら、いつかゼロになって当然である。
 しかし、感情を抑圧する過程で悦びの感情をも感じないようにしてしまうので、意欲のパワーが得られなくなってしまうのだ。 その結果、楽しいことをやろうとする意志はあっても、体が動かない、という状態になってしまう。 意志はあっても、やる気が出ないのである。 無気力状態である。
 さらにまた、自己欺瞞を続けた期間が長いほど修正しなければならない項目が増えるので、ますます軌道修正するのにエネルギーが必要となり、ますますおっくうになる。 心のエネルギーが低下する上に、修正項目が増えて莫大なエネルギーを必要とするようになる、という最悪の結果を迎える。
 最後の力をふりしぼって愛を得ようとしても、すっかり過去のツケが回っていて、葛藤したあげく選ぶのはニセモノの方なのである。 実際、ニセモノの方がホンモノらしく見えてしまうのである。
 こうして、いつまでたってもホンモノの愛情を手に入れることがなくなる。 なんとかしなくっちゃという意思はあっても、自己矛盾や葛藤に邪魔されて未来への意欲がどんどん低下するというマイナスのスパイラル現象が発生してしまう。
 そのため、多くの人は自己矛盾や自己欺瞞に関する問題解決を先送りしてしまう。 その結果、ズルズルと現状に流されて、抱えている自己矛盾や葛藤がさらに大きくなって、ますます解決がむずかしくなり、心のエネルギーも小さくなり……というさらなる悪循環になる。 こうして、にっちもさっちもいかなくなる時が来るのである。
 それのピークが女性では三十代前半(三三〜三五)、男性では三十代後半から四十代である。



 人は生きているだけでエネルギーを使います。 したがって、現状維持だけでは生命エネルギーは失われていく一方となります。 人はもともとそこに悦びや感動がないと生きてはいけない存在なのです。 だからこそ、愛をいつでも受け入れることのできる態勢でいなければならないのです。 愛を補給し続けないと若さは保てないのです。
 では、どうやったら無償の愛が得られるのか。
 人の幸せを悦び、人の不幸を悲しむ人間になることです。 これだけで十分です。 自分の幸せが即、人の幸せとなるような生き方をすることです。 あるいは人の幸せが即、自分の幸せとなる生き方をすることです。 人の不幸の上に成り立つような生き方、あるいは自分が犠牲となって他人を悦ばせるような生き方を決してしないことです。 人を不幸にした上で自分だけが幸せになるようなことはありえません。 人を不幸にすれば、それが廻り回ってきて、やがて自分をも不幸にするのです。 また、自己犠牲を伴うような生き方も決して他人を幸福にすることはありません。 仮に、自己犠牲を伴う場合でも、自分の本当の悦びを追求した末のものでなければなりません。 そうでなければ、そこに悦びや感動の共感が生まれないからです。

 人を愛するのは至上の悦びです。 このような悦び満ち溢れた人間の周りには、文字通り悦びを媒介とした人間関係が作られます。 うれしい、楽しい、おいしい、という悦びの言葉を素直に言い合えるような関係です。
 これとは逆に、人を愛することが出来ない人間の周りには文字通り、悪口、陰口、愚痴、不満など、怒りを媒体とした関係しか作られません。 当然、それはお互いの生きるエネルギーを食いつぶしていく関係であり、未来のない、下降線をたどっていくだけの関係、いわゆる死の関係となります。
 怒りを抱えた人たちに必要なのは愛し愛されることです。 しかし、こういう人たちは心の奥底では本当は愛を必要としているはずなのに、現実には人の怒りを買うようなことをやっては、ますます人から愛されなくなっていくので、周りには文字通り、怒りを吐き出す者同士の関係しか残らなくなるのです。

 怒りを吐き出す者同士の関係は、一種の被害者同盟であり、居心地が良さそうに見えますが、それは仲間内だけで、悦びが外へと広がっていくことのない極めて閉鎖的な関係です。 お互いの悪い所を刺激し合うばかりで、さらに寂しく怒れる人間関係になっていきます。 みんながみんな愛されたい人、癒されたい人ばかりで、誰も人を愛し、癒す人がいません。 そもそも寂しい人が寂しい人と一緒にいて得られる安心感というのは、「自分よりもちょっと不幸なヤツ」 と、相手を見下すことによって得られる安心感なのですから、悦びを仲立ちとした関係など生まれようがありません。
 このようなことばかり繰り返していると、まず何よりも顔つきが悪くなってきます。 仲間以外の人間に対する愚痴や悪口が多くなるので、体中から人間不信のサインがバンバンと出てきます。 そして、その人間不信のサインは当然、仲間内の人間にも向けられるので、不安と寂しさと恐怖を仲立ちとした緊張関係が出来上がっていきます。 およそ安心するということがなくなってしまうのです。 ですから、自分がいつ裏切られるかが気になって仕方なくなります。 また、自分がいざ抜け出そうとしても、裏切り者のレッテルを貼られるのが怖くて、容易に抜け出せなくなるのです。
 それでも、こうして自分よりも不幸な人間と付き合っているうちは、怒りや悲しみや寂しさの共有感情を通じて、確かに何かしらの一体感は得られるのかもしれません。 しかし、それは自分の命を膨らますことにはつながりません。 人の不幸をネタにして生きている人間は相手からも幸せを願われることはありません。 逆に、相手からも同じように見下されています。
 お互いの怒りをぶつけ合うような関係からは、決して生きる意欲が生まれてくることはないのです。 怒りによって突き動かされる行動というのも、それはそれで一種の美学とはなりえますが、ある時点まで来ると必ず行き詰り、自滅するか、共倒れになるのです。

 愛情飢餓に陥っている人の最大の問題点は、親から愛されなかったことではなく、親以外の人間から愛情をもらおうとしないことです。 いつまでも親と同じく愛のない人間から愛を得ようと執心して、他の愛情深い人からの無償の愛に盲目になってしまうことなのです。 親からの愛こそが一番だと思っていることです。
 しかし、愛は誰からもらっても同じです。 親でなければ駄目ということはありません。 親以上に自分を愛してくれる人を必死で探すのです。 探せば必ず見つかります。 自分よりも不幸な人とばかり付き合っていては、愛情飢餓は解決しません。 不幸な人は他人を幸せにすることが出来ないからです。 なお、人の愛情の深さは必ずしも社会的成功や金銭的成功とは一致しません。 いくら社会的に成功を収めた人でも愛情飢餓に陥っている人はいくらでもいますから、注意が必要です。 あくまで自分自身の悦びを得ている人、自己実現している人から愛や悦びを分け与えてもらうことです。

 人は悦びを手に入れないと、自分に自信が持てない生き物です。 どんなにお金や名誉や地位を手に入れても、愛し愛される悦びを得ていないと、人はいつまでも劣等感にさいなまれることになるのです。
 愛し愛される能力はピアノやゴルフなどの技術を上達させる努力と違って、自分ひとりの力では解決できません。 したがって、人はいつでも無償の愛を受け取れる状態でいなければならないのです。 ある程度人に愛を出せるようになってからも、この素直で謙虚な態度を失ってはいけません。 心を閉ざしていると、無償の愛は一切入ってこないからです。 こういう時に 「もう充分大人になったんだから、無償の愛なんていらない」 という斜に構えたような態度、ようするに 「大人ぶった態度」 というのが一番良くないのです。

 人間は自分で自分を騙すということをよくやります。 自分は本当はこうありたいのに、幼い頃からの習慣や周りからの圧力によって、いや、そうじゃないとわざと自分に言い聞かせたり、第一希望を遠ざけ、第三、第四、第五希望を選ぶことによって、わざわざ自分から不幸を呼び寄せるような行動に出ることなどです。
 こうした不自然な行為は自分自身の力ではどうにもならないことがほとんどです。 ですから、そうした嘘を鏡のように映し出してくれる人間(たくさんは要りません。一人で十分です)、すなわち愛と信頼で結ばれた人間がどうしても必要なのです。 そうしないと、自分で自分を滅ぼすまで気がつかないからです。 気づいた時にはすでに身も心もボロボロ、ということにもなりかねないのです。

 不幸とは、自分が不幸であることに気づかないことです。 そうならないためにも、なるべく人生の早いうちから愛し愛されることを学んでいなくてはなりません。 こうした修行は歳を取れば取るほど難しくなります。 特に、社会的な地位が上がれば上がるほど、自分自身に対する素直さが欠けてきます。 素直に愛が欲しいと言えなくなるのです。
 ですが、生きるためにはやらなくてはいけません。 いくらお金を儲けても、いくら安定した収入が保証されていても、いくら話し相手に事欠かなくても、いくら体力作りに励んでも、結局老けてしまうのは、そこに愛がないからです。 人間には見返りを求める愛ではなく、無償の愛がどうしても必要なのです。


病気とは神からのありがたいメッセージ

 病気には、次の二つの側面があります。
 一つ目は、体にとって有害なもの(ウィルスや毒素)を体外に放出しようとする機能が働いている状態です。 例えば、人間の体は風邪をひけば熱が出たり、悪いものを食べれば下痢をしたりします。 これは、今まさに自然治癒力が発揮されて、体が正常に戻ろうとしている状態です。 だからこそ、痛みや熱を伴うのです。 このようなシステムが機能しているからこそ、人は健康を保つことができるわけです。 つまり、病気をするということは健康の証でもあるのです。
 このような急性の症状は、放っておいても治るのが普通です。 あえて 「なにもしないで休む」 のが最良の対処法なのです。 痛みや苦しさは体が今まさに病気と戦っている証拠なのですから、体の反応にすべてを託すのです。 人の体はちょっとやそっとのことでは死なないようにちゃんと出来ています。 後は完全に回復するまで待つことです。 そして、その間は絶対安静にすることです。 こうすれば病気はほぼ100%完治します。

 こういう時、医者に頼ることよりも、むしろ身近な人からの熱い思いが病気の回復を早めるものです。
 例えば、子供が熱を出して苦しんでいる時には、親は一緒になって苦しんであげることです。 そうして三日三晩見守り続けることです。 そうすることで病気を治す力を強め、子供に自信をつけさせるのです。 実際、子供はこうしてさまざまな感染症にかかることによって、免疫力を高め、成長していくのです。
 また、子供が病気にかかるのは、親の関心をひくため、という意味も多分に含まれています。 「もっとボク(わたし)を見てよ!」 という不満が高まってくると、子供は本当に病気にかかってしまうのです。 こんな大事な時に安易に医者や薬に頼っていては、親と子の信頼関係を築く大切な機会を奪ってしまいます。 子供が欲しいのはあくまで親からの 「がんばって!」 「生きて!」 という熱い思いなのです。

 病気の二つ目の側面は、その人自身の過去の行いや習慣、あるいは心のあり方そのものが病気の原因であるという場合です。
 病気とは、その人自身が過去どういう生き方をしてきたか、心の中でどういうものを絶えずイメージしてきたか、という 「意識」 によって作られる側面があります。 そして、その真の原因を突き詰めていくと、ほぼ例外なく 「自分らしく生きていなかった」 という点に帰着します。
 自分らしく生きられない原因は、ストレスです。 現代社会においては、ほぼすべての人が何らかのストレスを受けながら生活しています。 そうしたストレスが知らず知らずのうちに溜まってくると、体のあちこちから警告を発するようになるのです。

 また、これとは別に、過去(特に幼児期)に経験した何らかの出来事が病気の引き金になっている場合もあります。
 治りにくいといわれるすべての病気の原因は、どうやら過去に経験した出来事にあるようです。 ある 「出来事」 があって、そのショックやトラウマによって自分らしさを失ってしまうこと、自分らしく生きられなくなってしまったことから発生するようなのです。 その出来事は一回だけの場合もあれば、何回も繰り返される場合もあります。 いずれにせよ、その程度が限界を超えると、その時から心と体にゆがみが生じる、そして、そのゆがみが体に表れたものが病気だということです。 心当たりがある人は、自分の過去を疑ってみるのがいいかもしれません。

 人の体は、自分の本心と裏腹なことをやっていると、将来必ず体のどこかに障害が現れるように出来ています。 よって病気とは、「今のお前は自分で自分に嘘をついている」 「もっと自分に素直になれ」 「自らの欲するところに忠実に生きよ」 「何かを悟れ!」 「今の生き方を変えれば、もっと幸せになれる」 「自分の本性に逆らったことばかりしていると、こうなってしまうのだよ」 という神からの警告と捉えることができるのです。
 ちなみに、病気はどの部分に最も表れやすいのかといえば、それは、自分が一番強いと思っている部分、あるいは、自分が一番重大な関心を寄せている部分です。 なぜなら、弱い部分から壊れていくと、結局それが命取りとなって、いきなり死に直結する危険性があるからであり、また、自分が一番関心を持っている部分、すなわち 「よりによって」 という部分が壊れれば、警告としては一番効き目があるからです。
 例えば、お酒好きなら肝臓から、スポーツ選手なら足腰から、歌手なら喉から、外界に対して自己を閉ざしている人なら目や耳から、日頃から納得行かないことやうまく飲み込めないこと(ストレス)を抱えている人ならや消化器系統から、自分が女性であることを恨めしく思っている人なら乳房や子宮から、今の自分の生き方や考え方に不満がある人なら脳から、生きていることそれ自体に不満がある人なら肺や心臓や血液などの生命維持に直接関わる基幹系統から、まず真っ先に壊れていくことになります。
 人はわけもなくお腹が痛くなったり頭痛がしたりしないものです。 そこには必ず理由が存在します。 自分の本性、もっと分かりやすく言えば 「本音」 に逆らうようなことばかりしていると、人は必ず病気になるように出来ているのです。 その意味で、病気とは極めて緩慢なペースで行われる 「自殺行為」 のことなのです。

 どんなに突発的に見える病気でも、そこに至るまでの長い長い歴史があるものです。 そして、本人も薄々そのことに気がついている場合がほとんどです。 でも、何らかの理由で自分を止められないでいると、体が警告を発するのです。
 なぜ突発的に起こるのか。 そういうショックを与えないと、人はいつまでたっても自分の生き方を変えようとはしないからです。 しかも、問題を先送りしていればいるほど、まさに得意の絶頂という時になって症状が襲うことになります。 あえてそういう時を選んで神は罰を下すのです。 なぜなら、そういう時でないと効き目がないからです。
 もし、この時に生き方そのものを変えようとしないと、今度はもっと恐ろしい病気が極めて重い症状を伴って突発的に襲うことになります。 二度と立ち直れないくらいの深刻な症状です。 「今度こそ悟れ!」 という神からの最終警告です。 ゆえに、神からの警告を無視し続けるということ=どんどん死に近づくということを意味するのです。

 そうした神からのありがたいメッセージを素直に受け取れない人は、安易に医者に頼ったりします。 しかし、それが結局命取りになる場合も少なくありません。 なぜなら、たいていの医者は症状は抑えることはできても病気の根本的な原因までは診てくれないからです。 医者は警告そのものを除去するだけで、その背後にある真の原因を治そうとはしません。 つまり、医者の行うことは対症療法であって根本療法ではないのです。 ですから、患者の側はいつでも再発や後遺症の危険に苛(さいな)まれることになります。
 現代医学はほとんどの病気を治せません。 手術にしても、薬を処方するにしても、目先の苦痛や病巣を取り除いただけでは、それは対症療法に過ぎず、本当の意味で病気を治したことにはならないのです。

 医者に唯一求められているものがあるとすれば、それは 「あなたの幸せを願っています」 という熱い思いです。 これこそが患者の生きる意欲の源となります。 どんなに重い病気にかかっていても、人からの熱い思いを受け取ることができれば、病気は必ず回復するのです。
 現在の医療現場では、良心的な医者ほど儲からないシステムになっています。 逆に、不必要な検査を行い、薬を濫発し、手術で臓器をたくさん切り取る医者ほど儲かる仕組みになっています。 また、そうした医者ほど態度が高飛車で、人の話をろくに聞かないかわりに、患者の心を傷つけるようなことを平気で言ったりするものです。 これでは一体何のための治療でしょうか。
 人の幸せを願う熱い思いのない人間は、決して人を治すことが出来ないのです。 いくら知識を詰め込んでも、いくら技術を磨いても、いくらその道の権威となっても駄目です。 ゆえに、こうした熱い思いがない人は、残念ながら人を治す資格はありません。

 病気を治すためには、「必ず治る」 と信じることが必要です。 病気は治らないと思っていたら、本当に治りません。 しかし、治ると思ったら本当に治るのです。 実に単純な道理です。
 人の体は訳もなく病気になったりしないものなのです。 あらゆる病気、疾患、痛み、すべてには理由があります。 そして、それらはすべて神からのメッセージです。 そのようなありがたいメッセージを前にして、われわれがまず第一に取るべき行動とは、病気の原因を自分で突き止め、そして生き方を変えることです。 これが唯一の根本治療となります。

 病気の原因は自分で見つけるのが基本です。 自分の体のことは自分が一番よく知っている、という大原則を忘れてはなりません。 病気にかかるということは、本当の自分というものを知る良い契機なのです。 病気の効用は、今まで見えなかったものを見えるようにすることです。 自分自身が抱えていた不自然さが露わになる瞬間なのです。 そこで悟りを得るかどうかで、その後の幸不幸が左右されます。
 そして、そこで自分自身を見つめ直し、よりよい生き方を見つけた人間だけが、永遠の生を得ることが許されるのです。


永遠の 「今」 を生きる

 人の体は、自分の本性に逆らうようなことばかりしていると、病気になり、老化し、死に至るようにできています。 しかし、その逆もまた真なりで、自らの欲するところに忠実に生きていれば、まったくの健康体のまま、永遠に生きられる能力を有していることは、これまで述べてきたとおりです。
 現代に生きるわたしたちは、さまざまな既成概念に縛られています。 例えば、「歳をとると誰でも老化する」 という概念しかり、あるいは 「誰でもいつかは死ぬ」 という概念しかりです。 それらはいずれも人類の長い歴史の中で絶えず積み重ねられてきた既成事実によって作り出されたものです。 確かに現実にそうした老いと死の光景を何べんも見せつけられれば、人は誰でもいつかは老化し、寿命を迎えるのだ、と考えるのも無理からぬことですし、そこから 「どうせ自分もいつかは・・・」 と思い至っても不思議ではありません。 しかし、そうした既成事実に基づく概念がいくら長い年月を経て作られたものであるといっても、それが常に真実であるとは限りません。

 インドの言い伝えにこういう言葉があるそうです。
 「もし、人がその人生の中で老いた人を一度も見ることがなかったら、その人は老いることがない。」

 これは逆に言えば、「人は、老いた人間を見ることによって、老いのイメージが具体化され、やがては自分もそうなってしまうと思い込み、そして実際にそうなってしまう」 ということです。 すなわち、単なるイメージといえども、それをいつもいつも思い浮かべていると、それはいつかは実現してしまうということです。 つまり、いつかは自分もあんな風に老いてしまうだろう、と思っていると、人は本当に老いてしまうのです。

 「自分は老いた…」 そうイメージした瞬間から本当に老化は始まります。
 逆に、自分は老いるはずがないと思っている人、あるいは、楽しいことをするのに精一杯で、老いのことなど考える余裕もない人は、決して老いることはありません。 ですから、われわれは絶えず自分にとって気持ちいいこと、楽しいこと、うれしいことをやり続ける必要があるのです。
 あなたは日常の何気ない動作にも、いちいち 「大人げない」 とか 「面倒くさい」 といって、本気を出すことをためらっていませんか?
 肉体というのは今日百パーセントの力を出せば、明日は百二十パーセントの力を出せるようになっています。 しかし、歳を取ったからといって、今日出し惜しみをしたら、明日は八十パーセントの力しか出せないようになってしまうのです。
 では、毎日毎日フルに力を出し切ったら、肉体は老いることがないのでしょうか。
 その通りです。 老いないのです。

 人は、社会人となり、家庭人となる過程で、社会的な責任や周囲の関係に縛られ、日々の課題に追われていくうちに徐々に自分らしさを見失っていきます。 型にはまるというのか、社会的な既成概念の枠組みの中で自分を規定してしまうのです。 「大人であらねば…」 と無理やり自分に言い聞かせることによって、行動や考え方すべてに 「常識」 という足かせをはめ、自らの本当の欲求を削る方向で生きることこそ大人の良識であると思い込んでしまっているのです。 こんな状態が長く続けば、いざという時、自分のやりたいことをやろうと思っても、やりたいこと自体が見つからず、何かをやろうとしても、そのパワーすら出ない状態になってしまいます。
 そうならないためにも、常に自分の持っている力をフルに出し切り、悦びを追求することが、永遠の生を得るためにはどうしても必要なのです。 ただ単に 「老いたくない」 では駄目です。 「そうなりたくない」 という思いは、実は強く思っていることと同じなわけですから、いつかはそのなりたくないものに自分がなってしまうのです。
 人間にとって、本来最も大事なことは、自分の個性を発揮して、自分らしくあることです。 老いや病気のことなど考える余裕もないほど、自分にとって楽しいこと、うれしいことに没頭することです。
 あなたは子供の頃、何に最もワクワクしましたか? 社会に出てから日々の仕事に追われるようになって、何か大事なものを忘れてしまってはいませんか? いつの間にか自分らしくあることをあきらめてしまってはいませんか?

 子供の頃は、誰しも病気や老いのことなど少しも考えず、活発に遊び回っていたに違いありません。 それがいつの間にか、自分を殺していく過程に慣れてしまって、気づいた時には何もするべきことが思い浮かばず、周りに流されるままその日その日をやり過ごしていく…誰もこんな自分を望んでいるはずはなかったと思います。 われわれは今こそ子供の頃の純真さを取り戻すべきなのではないでしょうか。
 本来、人間は歳を重ねるにつれて清らかになってしかるべき存在なのです。 歳を重ねるにしたがってどんどん老いていったり、醜くなっていったり、頑固になったり、怒りっぽくなったりするのは、どこかに自分自身に対する嘘があるからです。 不自然な生き方をしている何よりの証拠です。
 自分に嘘をつき続けられる期間は、せいぜい80年、どんなにがんばっても120年が限度です。 逆に言えば、自分に嘘をつくことなく、自らの欲するところに忠実に生きていれば、いつまでも若々しく、決して老いることなく、永遠に生き続けることができるのです。

 これまでの人類は 「悪しき」 に流れやすい存在でした。 建前上は人を愛する悦びこそ至上の幸福であることは分かってはいても、それを究極まで実践する人間はほんの一握りの人間だけでした。 そして、そうした人たちがすべて幸福な生涯を全うしたかというと、決してそうではありませんでした。 例えば、ある人間がどんなに愛に生きようと思っていても、周りの人間たちから十分な愛が得られないまま、その高貴なる志はやがて世の中にはびこる数多くの怒りの渦の中に埋没し、自分を見失い、そしてついには死に至るという悲惨な事例を、人類はこれまで嫌というほど経験しています。
 そのため、ある世代において類まれなる幸福が訪れても、それは結局、一過性のものであり、世代を経るごとに幸福度が下がる構造になっていました。 その構造は今でも変わってはいません。 それでも人は口々に 「人類は確実に進歩してきた」 と言いますが、それは科学技術に限っての話であって、幸福度の観点から言えば、むしろ人類は確実に退化してきているのです。

 人が悪しきに流れやすいのは、「死」 こそがこの世界における唯一の平等だと思っているからです。 「何をやっても人はどうせ死ぬんだから…」 という諦観があるからです。 これこそが人類を不幸に導いてきた元凶でした。
 しかし、これからは違います。
 人間は決して死を目指して生きているわけではありません。 その時その時、すなわち、永遠の今を生きているのです。 時間の経過とは絶えざる現在です。 したがって、今その時を精一杯生きている限りにおいて、人は原理的に老いたりしないのです。
 老いと死は決して平等には訪れません。 不自然な生き方、不幸を不幸とも思わない生き方をしている人間にのみ訪れます。 このことを理解すれば、人は必然的に良き方向に流れることになります。 なぜなら、それが自然の摂理というものだからです。

 本来、すべての存在は同じ元素、同じ構成要素からできています。 よって、あらゆる多様な生命現象の中にも、その行動原理の根本を突き詰めていくと、驚くべきほど共通性があるのです。 それぞれの生物にはそれぞれ独特な生き方があっても、悦びや快を求めるという点では同じです。 そこに人間と他の動物たちとの違いは存在しません。 「不快を避け、快を求める」 という意味において、すべての生物は同等なのです。
 人は悦びを得るために生きています。 そして、それは 「今」 やるべきなのです。 やりたいことを今すぐ実行すること。 決して先送りしないこと。 すなわち、永遠の 「今」 を生きることです。 それができれば、永遠の生が可能となります。 そして、これは人間以外の生物が常日頃実践していることなのです。
 あなたは今日一日しか命がないとしたら、何をしたいですか? いつ突然終わるやも知れないこの命、ならば今やるべきこと、今しかやれないことをするべきではないですか?

 「明日があると思うなかれ。 明日があると思うから今がおろそかになる。 もし明日死ぬとしたら、どんなことでも一生懸命するに違いない。 だから今を生きよ!」

 人は生きんとする意志が失われない限り、死ぬことはありません。 何千年、何万年、いや永遠に生き続けることも決して不可能ではありません。
 なぜなら、永遠を目指すことこそ生命の本質だからです。 永遠の今を繰り返すことこそ、生きることそのものだからです。 そこに過去も現在も未来もありません。 あるのはただひたすら絶えざる現在のみです。 その意味では、今生きていることとは、まさに永遠を生きているのと同じことなのです。
 すべての存在は永遠を目指しています。 だからこそ、そこに生成と消滅のドラマが生まれます。 したがって、そこには生だけでなく死もあります。 しかし、生命が最初から死を目指す存在であったなら、そうした生成と消滅のドラマも、あるいは宇宙そのものさえも存在しなかったでしょう。
 人は決して死を目指してはいません。 人はあくまで生きるために生まれてきたのです…。



『かんたん!筋肉緊張ダイエット』管理人:Tarchan




<参考文献>

家族のなかの孤独 ミネルヴァ書房
女性の「オトコ運」は父親で決まる 二見書房
母親よりも恵まれた結婚ができない理由 二見書房
「子どもを愛する力」をつける心のレッスン 講談社
娘が嫌がる間違いだらけの父親の愛 講談社
思い残し症候群 NHK出版
娘の結婚運は父親で決まる NHK出版
人はなぜ人間関係に悩むか あさ出版
男と女のラブゲーム STEP
他人にいい顔をして何になる ドリームクエスト
自分にウソをついて何になる ドリームクエスト
身近な人との人間関係につまずかない88の法則 大和書房
心の教育 あしたへの風(共著) アートヴィレッジ
<以下新規購入分>
オトコ運が劇的に変わるカウンセリング 大和出版
くらたま&岩月教授のだめ恋愛脱出講座 青春出版社
無神経な人に傷つけられない88の方法 大和書房
メルヘン・セラピー 「般若になったつる」 佼成出版社
人の望むようにしすぎる人、平気で人を支配したがる人 あさ出版
女は男のどこを見ているか 筑摩書房
ずっと彼氏がいないあなたへ WAVE出版
なぜ、男は「女はバカ」と思ってしまうのか 講談社+α新書
 以上、すべて岩月謙司 著

快癒力 サンマーク文庫
快癒力2 サンマーク出版
あなたには快癒力がある 幻冬舎
生死同源 幻冬舎
いつでも、今が一番幸福 竹内書店新社
絶対成功力 マガジンハウス
病気を治すのはあなた自身 日新報道
人生50歳脱皮論 講談社
治癒力創造 主婦の友社
魔法のくすり箱 コボリ出版
意識の扉をあけて 七賢出版
 以上、すべて篠原佳年 著

成人病の真実 近藤 誠 著/文藝春秋社
神様、何するの… 吉井 怜 著/幻冬舎


 ※ 敬称略




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