2003年元旦号 【Tarchanより新年のご挨拶】 みなさま、あけましておめでとうございます。 |
■自分は生きている ─脱毛症その後─ 去年7月に脱毛が発覚して以来、約半年が経ちました。 その間、仕事を一切止め、栄養や睡眠をたっぷりと取り、あらゆる不摂生を断ち、常に自分らしい外見を心がけるなど、脱毛を克服するための最善の努力を尽くしてきた結果、10月にはようやく脱毛も小康状態になり、また、11月に入るとあちこちから産毛も生え始め、事態が好転しつつあることを実感しました。 特に、おでこの生え際からぽつりぽつりと新しい産毛が生えてきたことは、若返りを予感させるうれしい兆候ということで、それまでのわたしの暗かった気分を一掃させました。 はっきり言って、最初の3ヶ月は地獄でした。 心のリハビリを開始しているにもかかわらず、髪は通常でも一日50〜100本は抜けてしまうので、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と経っていくうちに見た目は徐々に悪くなっていきました。 髪の毛はいったん抜け落ちると3〜4ヶ月たって再び同じところから生えてくることは分かってはいても、日々薄くなっていく自分の頭を鏡で見るたびに気分は限りなく落ち込みました。 そんな中、脱毛が顕著になってきたからといって、慌てて髪を短く切ったりしなかったことは、わたしにとって賢明な選択でした。 よく禿げが目立ってきたからといって短く刈ってしまう人がいますが、あれはむしろ逆効果です。 あくまで現状維持が鉄則です。 少しでも髪が生えている(残っている)という感覚を大事にした方がいいのです。 あとは切らずにできるだけ長く伸ばすことです。 ところで、髪の毛の脱落は一体何を象徴しているのか、わたしは改めて考えてみました。 およそ髪の毛が抜け落ちて喜んでいる人間など一人もおりません。 薄くなった頭髪を目の当たりにすれば、誰でも必ず気分が落ち込んできます。 生きる気力も失ってきます。 内部疾患と違って、絶えず人目に触れる部分であるだけに、その心理的なショックは計り知れないものがあるのです。 すべての病気や疾患には、多かれ少なかれ、このような神からの警告の意味が含まれています。 もっともっと幸せになる能力があるのに、それを怠っているから、神はあえて罰を下すのです。 そして、その原因を自分で突き止めて、自分で対処しろ、と言っているのです。 それが神からの警告の真意です。 頭髪の場合はそれがより根源的な形となって現れたものです。 ですから、今までの生き方や考え方を180度変えるほどの思い切った決断をしないと治らないということです。 ゆえに、髪の毛の脱落は神からの罰としては最大級のものと言えるでしょう。 まさに、「髪=神」 なのです。 ともかくも、今回の事件は自分自身の生き方を見つめ直す良い機会となりました。 去年の秋、わたしはまるで何かに取り憑かれたかのようにあちこちの山に登りました。 少しでも 「自分は生きている」 という実感を味わうためでした。 一歩一歩土を踏みしめることによって、自分が自然と一体化している感覚こそは、それまで自分自身のことすら考える時間も余裕もなかったわたしにとっては、ぜひとも必要なものでした。 何も考えないで、ただひたすら登り、草を掻き分け、時には迷い、ついに頂上にたどり着いて悦びを噛みしめる、それはまさに人生の縮図そのものでした。 そうした中で、わたしは改めて気づきました。 もうすぐ35にもなるこのわたしが、こうして仕事を辞め、先々の不安など考えることなく山登りに没頭することが出来るのも、ひとえにHPを見てくださっている皆さんからの温かい支援があったからではないか。 |
第4版 [2004年8月31日 第3回改訂] ◆2003年・新春特別コラム◆〜新世の日本人として3〜◆『永遠の若さのために』◆ |
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■まえがき人は必ず老い、そしていつかは死ぬ、といわれます。 確かに、わたしたちの周りでは 「死」 は日常茶飯事に起こっています。 その大半はいわゆる加齢に伴う病気で亡くなる人たちです。 こうした現実を目の前にした時、人は誰しも 「老いと死」 は逃れようのない宿命であると思うのは無理からぬことかもしれません。 しかし、果たしてそれは真実なのでしょうか。 去年の事件以来、わたしは老化というものについて真剣に考えるようになりました。 老化など自分にとって縁のない別次元の話だと思っていたわたしにとって、まさに不意をつかれたようなショックでした。 自然界を見渡してみると、人間の常識が当てはまらないケースが多々あります。 例えば、樹齢何千年にもなる縄文杉や、二千年以上も前から地中に埋もれていたハスの実が、その後見事に開花した大賀ハスの例など、その強靭な生命力には驚くばかりです。 一体、何が 「万物の霊長」 でしょうか。 一体、人間のどこが他の動物よりも優れているというのでしょうか。 それはまさしく誤解も誤解、人間の側の勝手な思い込みであり、傲慢さを示すもの以外の何物でもなかったのではないでしょうか。 いや、ひょっとしたら人間とは、自然界の中で一番 「哀れな」 存在だったと言えるのではないでしょうか。 世の中には数多くの誤解や迷信がはびこっています。 「歳をとれば誰でも寿命を迎える」 という誤解はその最たるものです。 ゆえに、そうしたこれまで常識とされてきたもののいかがわしさやいい加減さによって、今までどれほど多くの人々が惑わされ、自分や他人を傷つけ、そして命を落としてきたか、そして、そうした常識をひっくり返すだけで、今まで眼前に広がっていた無味乾燥な世界が、どれほど劇的に変わり、どれほど平穏で、どれほど幸福に満ち満ちた世界に変わることができるか、それを明らかにすることがこのコラムの使命であると考えています。 |
■すべては 「自分を愛すること」 から始まる 自分を愛する、というと、なんだか自分勝手な響きがあります。 たいていの人は 「自分を活かすことは相手を殺すこと」 であり、むしろ 「自分を殺して相手を活かすこと」 が良識だと思っています。 しかし、それは大きな誤りです。 愛の基本は自己愛です。 自己愛とは、自分が一番好きなことをすること、自分に忠実に生きること、自分らしく生きることです。 自分独自の 「美学」 といってもいいでしょう。 人は第一希望を貫くことによってのみ、悦びが得られるようになっています。 したがって、第一希望においては常に攻めの姿勢でいなければならないのです。 言い換えれば、自分の美学を貫く、つまり 「自分が選んだものこそ一番である」 「これが本当の自分なんだ!」 という態度です。 第一希望を実行すると、あるがままの自分を受容することができるようになります。 そして、このような自己受容は、人を愛する時にも必要なのです。 なぜなら、愛するとは受容することであり、共感することだからです。 これができないと、そもそも励まし合いができないからです。 幸福になるための道のりは決して平坦ではありません。 特に自分を愛することは、必然的に周りとの戦いになります。 まず間違いなく、不幸な人間たちから嫉妬されることになります。 だからこそ、人は命がけで自分を愛さなければならないのです。 ■生きる意欲は人からもらうもの ─愛の枯渇が死を招く─ 人はたいてい生きる意欲は自分自身の中から湧いてくるものと思っています。 しかし、実際はそうではありません。 どんなに一人の力で生きているように見えても、生きる意欲とは実は 「人からもらうもの」 なのです。 生きる意欲、あるいは生命エネルギーと言ってもいいですが、その源は人からの愛です。 幼い時は親や祖父母や親類からの愛、大きくなってからも友人や恋人、あるいは見知らぬ人からの暖かい救いの手が、知らず知らずのうちに生きるパワーとなって、その人間を動かします。 幼い時の記憶というのはほとんど失われてしまいますが、「生きているだけでかわいいよ」 「生きているだけでうれしいよ」 という、かつて人から無条件に注いでもらった熱い思いが、いざという時に人を動かすのです。 たとえ無償の愛を注いでくれた人がこの世にいなくなっても、愛だけはしっかりと残ります。 無償の愛は 「生きろ!」 という強烈なメッセージです。 愛は基本的に誰からもらっても同じです。 親でなければ駄目ということはありえません。 もともと人は親からの愛情だけでは足りないものです。 平均すると、親20人分の愛情を必要とします。(指の数と同じですね。) 何かを傷つけたいという衝動は、「怒り」 から生じます。 「悦び」 も 「怒り」 もどちらも人を活発にするという点では同じですが、決定的に違う点は、前者は自分をも他人をも幸せにするのに対し、後者は自分をも他人をも不幸に陥れる、ということです。 怒りによってなされた行為は、人を感動させることができません。 心に残らないのです。 したがって、生きる活力にはなりません。 次第に元気が無くなってきます。 心ある人は近づいて来なくなります。 したがって、無償の愛が得られなくなった人間は、たとえニセモノと分かってはいても、他のことでその飢餓感の埋め合わせをしなければならなくなります。 その代表的な例は、いうまでもなく 「お金」 です。 無償の愛が得られないと、愛はいつか枯渇します。 人は現状維持するだけでも生命エネルギーを使うからです。 無償の愛を受け取る努力を怠っていると、早い人で10代、遅い人でも40代の後半には必ず生の倦怠期が訪れます。 愛の蓄えが底をついている状態です。 ちなみに、こうした態度は、親から愛されなかった人ほど顕著になります。 ちなみに、こうした自己欺瞞の態度を長い間続けていると、どういうことになるか。 岩月教授の極めて分かりやすい説明がありますので、それを紹介したいと思います。
人は生きているだけでエネルギーを使います。 したがって、現状維持だけでは生命エネルギーは失われていく一方となります。 人はもともとそこに悦びや感動がないと生きてはいけない存在なのです。 だからこそ、愛をいつでも受け入れることのできる態勢でいなければならないのです。 愛を補給し続けないと若さは保てないのです。 人を愛するのは至上の悦びです。 このような悦び満ち溢れた人間の周りには、文字通り悦びを媒介とした人間関係が作られます。 うれしい、楽しい、おいしい、という悦びの言葉を素直に言い合えるような関係です。 怒りを吐き出す者同士の関係は、一種の被害者同盟であり、居心地が良さそうに見えますが、それは仲間内だけで、悦びが外へと広がっていくことのない極めて閉鎖的な関係です。 お互いの悪い所を刺激し合うばかりで、さらに寂しく怒れる人間関係になっていきます。 みんながみんな愛されたい人、癒されたい人ばかりで、誰も人を愛し、癒す人がいません。 そもそも寂しい人が寂しい人と一緒にいて得られる安心感というのは、「自分よりもちょっと不幸なヤツ」 と、相手を見下すことによって得られる安心感なのですから、悦びを仲立ちとした関係など生まれようがありません。 愛情飢餓に陥っている人の最大の問題点は、親から愛されなかったことではなく、親以外の人間から愛情をもらおうとしないことです。 いつまでも親と同じく愛のない人間から愛を得ようと執心して、他の愛情深い人からの無償の愛に盲目になってしまうことなのです。 親からの愛こそが一番だと思っていることです。 人は悦びを手に入れないと、自分に自信が持てない生き物です。 どんなにお金や名誉や地位を手に入れても、愛し愛される悦びを得ていないと、人はいつまでも劣等感にさいなまれることになるのです。 人間は自分で自分を騙すということをよくやります。 自分は本当はこうありたいのに、幼い頃からの習慣や周りからの圧力によって、いや、そうじゃないとわざと自分に言い聞かせたり、第一希望を遠ざけ、第三、第四、第五希望を選ぶことによって、わざわざ自分から不幸を呼び寄せるような行動に出ることなどです。 不幸とは、自分が不幸であることに気づかないことです。 そうならないためにも、なるべく人生の早いうちから愛し愛されることを学んでいなくてはなりません。 こうした修行は歳を取れば取るほど難しくなります。 特に、社会的な地位が上がれば上がるほど、自分自身に対する素直さが欠けてきます。 素直に愛が欲しいと言えなくなるのです。 |
■病気とは神からのありがたいメッセージ 病気には、次の二つの側面があります。 こういう時、医者に頼ることよりも、むしろ身近な人からの熱い思いが病気の回復を早めるものです。 病気の二つ目の側面は、その人自身の過去の行いや習慣、あるいは心のあり方そのものが病気の原因であるという場合です。 また、これとは別に、過去(特に幼児期)に経験した何らかの出来事が病気の引き金になっている場合もあります。 人の体は、自分の本心と裏腹なことをやっていると、将来必ず体のどこかに障害が現れるように出来ています。 よって病気とは、「今のお前は自分で自分に嘘をついている」 「もっと自分に素直になれ」 「自らの欲するところに忠実に生きよ」 「何かを悟れ!」 「今の生き方を変えれば、もっと幸せになれる」 「自分の本性に逆らったことばかりしていると、こうなってしまうのだよ」 という神からの警告と捉えることができるのです。 どんなに突発的に見える病気でも、そこに至るまでの長い長い歴史があるものです。 そして、本人も薄々そのことに気がついている場合がほとんどです。 でも、何らかの理由で自分を止められないでいると、体が警告を発するのです。 そうした神からのありがたいメッセージを素直に受け取れない人は、安易に医者に頼ったりします。 しかし、それが結局命取りになる場合も少なくありません。 なぜなら、たいていの医者は症状は抑えることはできても病気の根本的な原因までは診てくれないからです。 医者は警告そのものを除去するだけで、その背後にある真の原因を治そうとはしません。 つまり、医者の行うことは対症療法であって根本療法ではないのです。 ですから、患者の側はいつでも再発や後遺症の危険に苛(さいな)まれることになります。 医者に唯一求められているものがあるとすれば、それは 「あなたの幸せを願っています」 という熱い思いです。 これこそが患者の生きる意欲の源となります。 どんなに重い病気にかかっていても、人からの熱い思いを受け取ることができれば、病気は必ず回復するのです。 病気を治すためには、「必ず治る」 と信じることが必要です。 病気は治らないと思っていたら、本当に治りません。 しかし、治ると思ったら本当に治るのです。 実に単純な道理です。 病気の原因は自分で見つけるのが基本です。 自分の体のことは自分が一番よく知っている、という大原則を忘れてはなりません。 病気にかかるということは、本当の自分というものを知る良い契機なのです。 病気の効用は、今まで見えなかったものを見えるようにすることです。 自分自身が抱えていた不自然さが露わになる瞬間なのです。 そこで悟りを得るかどうかで、その後の幸不幸が左右されます。 |
■永遠の 「今」 を生きる 人の体は、自分の本性に逆らうようなことばかりしていると、病気になり、老化し、死に至るようにできています。 しかし、その逆もまた真なりで、自らの欲するところに忠実に生きていれば、まったくの健康体のまま、永遠に生きられる能力を有していることは、これまで述べてきたとおりです。 インドの言い伝えにこういう言葉があるそうです。 これは逆に言えば、「人は、老いた人間を見ることによって、老いのイメージが具体化され、やがては自分もそうなってしまうと思い込み、そして実際にそうなってしまう」 ということです。 すなわち、単なるイメージといえども、それをいつもいつも思い浮かべていると、それはいつかは実現してしまうということです。 つまり、いつかは自分もあんな風に老いてしまうだろう、と思っていると、人は本当に老いてしまうのです。 「自分は老いた…」 そうイメージした瞬間から本当に老化は始まります。 人は、社会人となり、家庭人となる過程で、社会的な責任や周囲の関係に縛られ、日々の課題に追われていくうちに徐々に自分らしさを見失っていきます。 型にはまるというのか、社会的な既成概念の枠組みの中で自分を規定してしまうのです。 「大人であらねば…」 と無理やり自分に言い聞かせることによって、行動や考え方すべてに 「常識」 という足かせをはめ、自らの本当の欲求を削る方向で生きることこそ大人の良識であると思い込んでしまっているのです。 こんな状態が長く続けば、いざという時、自分のやりたいことをやろうと思っても、やりたいこと自体が見つからず、何かをやろうとしても、そのパワーすら出ない状態になってしまいます。 子供の頃は、誰しも病気や老いのことなど少しも考えず、活発に遊び回っていたに違いありません。 それがいつの間にか、自分を殺していく過程に慣れてしまって、気づいた時には何もするべきことが思い浮かばず、周りに流されるままその日その日をやり過ごしていく…誰もこんな自分を望んでいるはずはなかったと思います。 われわれは今こそ子供の頃の純真さを取り戻すべきなのではないでしょうか。 これまでの人類は 「悪しき」 に流れやすい存在でした。 建前上は人を愛する悦びこそ至上の幸福であることは分かってはいても、それを究極まで実践する人間はほんの一握りの人間だけでした。 そして、そうした人たちがすべて幸福な生涯を全うしたかというと、決してそうではありませんでした。 例えば、ある人間がどんなに愛に生きようと思っていても、周りの人間たちから十分な愛が得られないまま、その高貴なる志はやがて世の中にはびこる数多くの怒りの渦の中に埋没し、自分を見失い、そしてついには死に至るという悲惨な事例を、人類はこれまで嫌というほど経験しています。 人が悪しきに流れやすいのは、「死」 こそがこの世界における唯一の平等だと思っているからです。 「何をやっても人はどうせ死ぬんだから…」 という諦観があるからです。 これこそが人類を不幸に導いてきた元凶でした。 本来、すべての存在は同じ元素、同じ構成要素からできています。 よって、あらゆる多様な生命現象の中にも、その行動原理の根本を突き詰めていくと、驚くべきほど共通性があるのです。 それぞれの生物にはそれぞれ独特な生き方があっても、悦びや快を求めるという点では同じです。 そこに人間と他の動物たちとの違いは存在しません。 「不快を避け、快を求める」 という意味において、すべての生物は同等なのです。 「明日があると思うなかれ。 明日があると思うから今がおろそかになる。 もし明日死ぬとしたら、どんなことでも一生懸命するに違いない。 だから今を生きよ!」 人は生きんとする意志が失われない限り、死ぬことはありません。 何千年、何万年、いや永遠に生き続けることも決して不可能ではありません。 |
『かんたん!筋肉緊張ダイエット』管理人:Tarchan
<参考文献>
■家族のなかの孤独 ミネルヴァ書房
■快癒力 サンマーク文庫
■成人病の真実 近藤 誠 著/文藝春秋社 ※ 敬称略 |