近況コラム



2004年8月31日号

心のリハビリ・逆襲の章


苦しかった8ヶ月間

 2004年初頭、わたしの脱毛症状はあいかわらず改善の兆しが見られなかった。
 それまでの過激なダイエットやリバウンドの繰り返しによる食生活の乱れのツケが回ってきたこともさることながら、本当の原因はどうもそれだけではないような気がしていた。 わたしの心の奥底では、「まだ何かおかしいのでは」 「まだ何か足りないのではないか」 という疑念が頭から離れなかった。
 実際、もう心のリハビリを始めて1年半にもなっていた。 その間、あらん限りの手は尽くしてきたはずだった。 「自己愛が誤った方向を向いているからこそ、それが慢性的なストレスとなり、脱毛という症状となって表れている」―― ここまでは分かっていた。 だからこそ、自己愛を本来の方向へ向けるべく、自分の本当の欲求がどこにあるのか、自分は何をしたら一番楽しいのか、ということを軸にして、日常における考え方、行動のあり方すべてを点検し、修正すべき所は修正し、可能な限り自己愛を貫き通してきたつもりだった。 にもかかわらず、まだ治らないということは、いまだに自己愛が本来の方向とは程遠い方向に向いている、ということに他ならなかった。
 では、一体どうしたらいいのか、どこが間違っているのか、そのための具体的な対処法が何なのか、わたしには分からなかったのだ。

 わたしにはこの一年が勝負という思いがあった。 「何としてでも今年中に治してみせる!」 という意地があった。 そして遅くとも夏までにははっきりとした形で結果を出したかった。 そもそも、わたしはいちいちHP上で途中経過を伝えるような形とは一刻も早くおさらばしたかったのだ。
 だが、やはり見通しが甘かったようだ。 いつまでも事態が好転しない現実を目の当たりにして、いったん誤った方向を向いてしまった自己愛を本来の方向へ向けてやるには、並大抵の努力ではおぼつかないこと、それを可能とするためには、どうしても今まで辿ってきた道を逆戻りし、過去をほじくり返し、そしてまた新しい道を切り開いていくという、三重の労苦が必要であること、それにはやはり相当な時間がかかることを思い知ったのだった。(ちなみに、一人の人間が生まれ変わるために要する時間は、20代で一年、30代で十年、40代で百年、というのがおおよその目安である。 仮に、20歳の人が軌道修正するのに一年かかったとすると、30歳の人は十年、40歳の人は百年かかるという意味である。 昔から 「四十バカは治らない」 といわれる所以である。)
 そもそも昨年のメンスカデビューを心のリハビリの 『最終章』 としたのも、「これで終わりにしたい、早く治って欲しい」 という切実な思いからだった。 だが、あれはそれから始まるであろう数々の試練のほんの 『序章』 にすぎなかったのである。

 ここに至って、単なる意地っ張りでカッコつけようとしても意味のないことだと悟った。 それよりもわたしを待ってくれている人がいる、勇気づけてくれる人がいる、そうした人たちの期待を裏切るのはいかにも忍びなかった。 やはりここは途中経過でも何でもいい、とにかくわたしの真実の姿を見てもらうこと、今までわたしがどのような心の変遷を辿り、今わたしが何を思い、何を考え、これから何を目指しているのかを伝えることが大事だと思ったのだ。(ちなみに、これが現在の状況。 2004年8月撮影。
 このHPを見てくださっている皆さんにはあらぬ心配をかけて本当に申し訳ないことをしたと思う。 この243日にも亘る長い沈黙の間、多くの人の期待を裏切るようで身が引き裂かれる思いだった。 これはもうただただ心から 「ごめんなさい」 と言うしかない。


わたしに起こった心の変化

 心のリハビリ開始以来、あらゆる手は尽くしてみたものの、脱毛症は一向に回復に向かう気配が見られなかった。 特にここ1年はまさに一進一退の攻防が続き、良く見ても現状維持のままだった。 もちろん、髪の生える速度というものは極めて遅く、その間にも抜け落ちていく髪があるのだから、見た目的にそんな劇的な回復があるわけがないのは分かってはいたのだが、このままただひたすら指をくわえて黙っているのは、いかにももどかしかった。 わたしには時間がなかったのだ。

 ただ、わたしにとって唯一の救いだったのは、わたしには脱毛の原因もその対処法も、理論的には分かっていたことだ。
 もう一度おさらいすれば、脱毛とは 「自己愛が誤った方向(自分を破壊する方向)に向いている状態」 なのであり、それを治すためには 「今まで自己破壊モードに入っていた自己愛を自分を愛する方向へと変えてやること」 である。 つまり、今までの誤った自己愛の使い方を修正し、それを本来の方向へ向けてやれば脱毛症は確実に治るはずなのだ。 問題はそのための具体的な方法なのである。
 ちなみに、わたしにはまだ白髪は一本も生えていない。 つまり、愛の蓄えは十分にあるということだ。 だが、せっかく愛の蓄えがあってもその使い方が間違っていては話にならない。 したがって、自己愛の使い方を現実においてどう応用するかという、まさにその一点に脱毛症克服のカギがあったのだ。

 もう一つ重要なことは、脱毛のような心身性の病気は 「人との関わり合いの中で作られるストレス性の病気」 だということである。 別の言い方をすれば、言葉を話し、社会性を有するという人間特有の病気だということである。(禿げが文明病といわれる所以である。)
 では、脱毛症を治すためには、人との関係を一切絶って俗世から離れた孤高の暮らしをすればいいのだろうか。
 いや、そうではない。 人にとって最大の脅威となるのが人であるならば、人にとって最大の癒しとなるのもまた人のはずである。 つまり、人との関わり合いの中で作られた病気を治すためのカギは、まさに人との関わり合いの中にこそ存在するのであり、そこから逃げてばかりいては、文字通り、何の解決法も見出せないままとなってしまう。 そうであるからこそ、人との関わり合いの中で作られた病気は、人との関わり合いの中で治すのが最も有効な方法となるのである。

 今年当初のわたしの課題はまさにそれであった。 いつまでも人との関わり合いを怖れていては、一歩も前には進めない。 愛に生きることが大事なのはもちろんだが、他人との葛藤や対立を避けてばかりいては、いつまでたっても人間的成長は望めないのだ。
 実はこの後半の部分、すなわち、人間関係における葛藤や対立を極力避け、自己をとことんまで押し通そうともせず、ただひたすら周りに妥協するような生き方をしてきたことに、脱毛症の真の原因があるように思えてならなかった。 このことは脱毛症発覚当初からもおぼろげながら意識されていたことだが、2004年に入ってからはより一層鮮明に自覚されるようになってきたのだった。

 実際、20代後半までは現在ほど他人との葛藤や対立を怖れてはいなかった。 何よりも悦びや怒りの感情の発露の仕方が今よりもずっとシンプルであった。
 例えば、20代の頃こんなことがあった。 それは印刷工場でアルバイトをしている時のことであったが、職場で年配の同僚に細かいことをあれこれと言われ、「なんで上司でもないあんたにそんなことまでいちいち指図されなきゃなんねぇんだよ」 とばかりに反抗的な目線を送った途端、「なんだ、てめぇ!」 といきなり突き飛ばされたことがあった。 わたしの方もすぐさま立ち上がって反論した。 結局、二言三言応酬した後、「てめえみてぇな奴、二度とここに来んな!」 と捨てぜりふを吐かれ、その場は収まった。
 この出来事は、今までは単なる若気の至りくらいにしか記憶していなかったが、今思い起こしてみれば、かつてのわたしは、年配だろうが誰だろうが、相手にそのような怒りを覚えさせるほどのアクの強さを持っていた、自分の納得いかないことに関しては、たとえ直接手は出さなくても、とことんまで反抗する意志を持ち合わせていた、ということに改めて気づいたのだ。

 これはわたしにとって新たなる発見であった。 確かにそうなのだ。 昔はもっともっと自分の感情に対して素直だった。 今よりもはるかに我が強く、生意気で、わがままで、自分勝手に生きていた。 いい意味で単純だったのだ。 先の件にしたって、当時は 「うるせぇオヤジ!」 くらいの感情しか湧かなかった。 自分で自分を責めるようなことは一切せず、その場その場でキッチリと感情の整理は付いていたものだった。
 ところが、30代に入ってからはそうした単純さやアクの強さというものも徐々に消え失せてしまっていた。 何か一つでも問題が起きる度に、うじうじと考え込むようになり、妙に哲学的になり、自分を責めるようになった。 とりわけ怒りの感情の喪失は顕著であった。(他人に迷惑をかけるだけの怒りは論外だが、不正に対する怒りや信義を貫くための怒りはやはり必要なのだ。)
 そのせいか、他人との対立を極端に怖れるようになってしまった。 そこまで自己を押し通す気力が無くなってしまっていたのだ。 そのかわり、「まあしょうがない…」 と心の中で溜息をつくことが多くなった。 争い事も出来るだけ避けるようになった。 本当は意気地が無いだけなのに、それを自分が大人になったせいだと勘違いしていた。 言うなれば自己愛の喪失である。
 おそらくこうした自己愛の喪失と平行するように、脱毛も徐々に進行していったのだろう。 しかも、こうした自己愛の喪失は、ある日突然急に起ったのではなく、歳を重ねるにつれ苦い経験を味わい、絶望感・無力感が増幅される度に、知らず知らずのうちに進行していったに違いないのだ。 そして、それがあの二年前の2002年の夏の時点でついにピークに達したわけである。

 思えば、10代、20代の頃は周囲のことなど気にせずにもっと勝手気ままに生きていたものだ。 それがいつの頃からか、自分の本当の欲求や感情を削り落としていくことに慣れてしまい、気づいた時には自分で自分をこれ以上ないほどにベコベコに凹ませていた。
 もちろん30代に入ってからも 「果たしてこれでいいんだろうか」 「本当に自分らしさを貫けているんだろうか」 という疑念は常に心の奥底にあった。 だが、目先の居場所確保についつい目を奪われ、当座しのぎのためにとりあえず周りとうまく妥協していくことが半ば習慣と化してしまっていた。 それ以外の生き方を知らなかったのだ。

 本来ならば、自己愛の貫き方や他人との関わり方というものは、親元にいる間にすべて克服しておくべきだった。 思春期までに克服されているべきことが、今の今まで克服されてこなかった、つまり肝心なことが放ったらかしだったことのツケが、今まさに一気に吹き出しているといっても過言ではないからだ。
 だから、わたしはいまだに自分自身を甘やかす悪い癖に悩まされている。 およそ 「命がけ」 という言葉とは無縁の人生を歩んできたと言っても過言ではない。 高校生活も、海外への留学も、仕事も、あれほど勇み挑んだ東大受験でさえも、すべてが中途半端で投げやりで、今は儚い夢と消えつつある…。 わたしは自分で自分の悦びの芽を摘み取ってきたのではないだろうか、という思いに囚われることがしばしばだ。

 そこでわたしは考えた。 親元での17年間、社会に出てからの2年間、海外での2年間、帰国してから現在に至るまでの15年間、自分は今まで何をやってきたのか、その歴史を振り返り、心の変遷を辿ることによって、現在わたしの抱えているすべての問題の原因が明らかになるのではないか、そして、そこにこそ脱毛症の真の原因も隠されているのではないか、そう考えたのだった。


家族との葛藤の歴史

 わたしの父は、世間的に見れば極めて普通の父親に分類されるだろう。 特別厳しく躾られたわけでもないし、暴力を振るわれたこともない。 ただ、それと同じように、特別嬉しい思い出とか、特別楽しい思い出もないこともまた事実だった。 ようするに、わたしにとっては可もなく不可もない人だった。
 そのくせ、人の意見に耳を傾けるようなことは一切なかった。 父が7人兄弟の長男であり、昭和一ケタ世代特有の頑固さを有していたせいかもしれないが、とにかく人の意見に同意するということがない。 途中まで聞いているふりをしても、最後に出てくる結論はいつでも決まって否定であり、説教じみた言葉だった。 しかもそれが父自身の人生経験からくる哲学に基づくものでなく、あくまで世間的な常識に沿った高飛車な物言いに過ぎなかったのだ。
 いつしかわたしは、そんな父の言葉をまともに受け取らなくなっていた。 こちらから積極的に話し掛けることもなくなった。 父はわたしにとって煩わしい存在でしかなくなっていたのだ。

 その思いを決定付けたある事件があった。 ずいぶん昔の話だが、あれはわたしが高校を中退するかしないか、その相談を両親に持ちかけている時だった。 話の途中で、わたしが 「今のクラスには友達が一人もいない…」 とこぼした時に、父が何げに発した言葉がいまだ忘れられない。 父はその時、わたしにこう言ったのだ。
 「馬鹿でもチョンでもいいから作れ!」
 わたしは愕然となってしまった。 わたしはその頃、真剣に友達付き合いに悩んでいたのだ。 クラスにはそれなりに親しい仲間がいたが、それは周りから仲間はずれになるのが嫌で選んだその場しのぎの相手に過ぎなかった。 本当はそんな友とも呼べない友と付き合っていることが苦痛だった。 そんな本当の気持ちを誤魔化して生きている自分に嫌気が差していた。 だからこそ、わたしはここぞとばかり父から人生の指針となるような含蓄のある言葉を期待していたのだ。
 だが、そのわたしの期待は先の言葉で一気に砕かれてしまった。 父の言葉は、わたしには 「自分を殺してでも周りに合わせていけ!」 としか聞こえなかったからだ。 さらに話を聞いているうちに、この人は50年以上生きてきて、こんなつまらない哲学しか身に付けることが出来なかったのだろうか…という失望感に埋め尽くされてしまった。 また同時に、おそらくこの人は今までもこういう考え方で、自己の信念を貫くこともなく、闘うこともなく、その場しのぎでのらりくらりと生きてきたのだろうな、ということがおぼろげながら分かってしまった。
 この時点で、わたしはこれからの人生におけるハンドルとブレーキを両方失ってしまったような絶望感に囚われたのだった。
 もちろん当時はここまで自分自身の気持ちを深く咀嚼していたわけではない。 実際には、「そりゃないんじゃない?」 という程度の理解だったと思う。 しかし、それでもこの時味わった言いようのない絶望感・虚脱感は、それ以後も楔のようにわたしの心に深く打ち込まれたことは間違いない。 親の何げに発した言葉というのは、それほどまでに子供の心に深く刻み込まれ、後々まで尾を引いてしまうものなのだ。

 わたしにとっては、母親もまた同じように 「可もなく不可もない」 存在であった。 特別嬉しい思い出もないかわりに、特別嫌な思い出もない。 世間並みに見れば極めて普通の母親であった。
 だが、わたしが中学生になった頃から、なぜかわたしは母親に対して反抗的になった。 とにかく母のやることなすこと何もかも気に喰わない、顔を見るだけでムシャクシャする、そんな状態が何年間も続いた。 当時は自分でもその理由がよく分からなかった。
 今考えてみると、やはり 「共感されていない」 という不満があったのだろう。 わたしがダイエットを始めた当初も、口では一応理解を示すものの、その実、まるで関心のないことは明らかだった。 実際、食生活の面でも何の手助けもしてくれなかった。 献立を工夫してくれたわけでもないし、こちらの体重の変化を気にかけたこともない。 そのくせ、わたしのダイエットがうまくいかず、気落ちしているところへ、これ見よがしに、マラソンランナーの伝記を買ってきてはわたしに読ませようとする。 母はそれでわたしを勇気付けようとしたつもりなのだろう。
 このように母の気遣いは、わたしにとってはいつも的はずれなものだった。 まるで確信犯的に人の第一希望を外すように行動する。 それでいていかにも母親としての役割を果たしているかのごとく平然と振る舞う、それがまたわたしの怒りを増幅させる、その繰り返しだった。

 その母に対する疑念が決定的になったのは、わたしが高校生の頃だった。
 わたしが高校を中退した時期あたりから、母は父に不満があるのか、あるいは父に失望したわたしの心を察知して自分の味方に付けたかったのか、わたしに向かってしきりに父の悪口や愚痴をこぼすようになった。 母にしてみれば、息子に自分の苦労を分かってもらいたい、同情を引きたいくらいの軽い気持ちだったのだろう。 だが、わたしはなぜか同情する気にはなれなかった。 その頃のわたしはわたし自身の心の問題で手一杯だったし、何よりも、親の愚痴ほど子供を落胆させるものはないからだ。 母の話を聞いているうち、わたしはだんだんと腹が立ってきたのを憶えている。
 「そんな男を夫として選んだのは他ならぬあなたじゃないか!」 「だったら離婚すれば?」
 わたしはよっぽどこう言ってやろうと思ったが、喉元まで出かかった言葉はついに発せられることはなかった。 それだけは言ってはならない言葉のような気がしたからだ。 この時期のわたしはまだまだ親の愛情を必要とする大事な時期だったのである。

 しかし、これ以降、わたしの母に対する目は、同情どころか、逆に侮蔑の目へと変わっていったことも事実である。 これこそ後々まで続く強烈な人間不信の誕生の瞬間でもあった。 本来なら一番愛したい存在なのに愛せない、愛されたいのに愛してくれない、こうした母に対する二律背反の思いは当然、他の人間にも適用されることになる。 このことが、後の社会に出てからのわたしを大いに苦しめることになるのだ。

 こうしたことがあって以来、わたしは家族はおろか、人間自体が信じられなくなっていった。 人間が生きていく上では、常に本音を隠してあくまで表面的な付き合いで生きるもの、それと同時に、大人というものは、人の幸せを応援してくれないもの、むしろ人の幸せを妨害し、破壊するもの、という思考回路がすっかり出来上がってしまっていた。(この考えは今でも基本的に変わってはいない。 それほどわたしの 「大人」 という人種に対する不信感、不潔感、嫌悪感、憎悪感、恐怖感たるや凄まじいものがあるのだ。 それは生きている限り絶対に消えることはないだろう。)
 わたしにとって家族が信じられないものになったことから、友人関係はもちろんのこと、その他諸々の人間関係がいちいち煩わしいものとしか映らなくなったのは言うまでもない。 わたしが現在に至るまで就職という道を選ばず、あくまでフリーという立場にこだわっているのも、そうした理由があったのかもしれない。

 高2の秋に高校を中退してからしばらくは予備校の大検コースで勉強していた。 この時はまだ一応大学進学を目指していたのだ。 だが、当然のごとく、勉強は手に付かない。 そもそも将来に目標らしい目標が何もないのだ。 意欲が湧くはずもない。 逆に、家族から一刻も早く離れたいという思いばかりが募った。
 そこで翌年の春、独立したいというかねてからの念願を果たすべく、わたしは新聞奨学生となる道を選んだ。 これなら部屋は与えられるし、奨学金も出る。 まさに願ったり叶ったりであった。 わたしにとっては初めての仕事であり、社会への第一歩であったので、全く不安がなかったわけではないが、とにかくも自分の城を確保することが出来るのだ。 それだけでも十分だった。

 こうして、わずか17歳にして一人暮らしを始めることになった。 だが、右も左も分からぬまま飛び込んだ新しい環境で、もともと人間関係そのものに不信を抱き、精神状態も安定していなかったわたしだから、当然のごとく、仕事ぶりも職場での人間関係も最悪だった。 わたしは普通に振る舞っているつもりだったが、わたしのやることなすこと、すべて周りから反発を買ってしまうのだ。 ある同僚からは 「協調性がねぇな」 と面と向かって言われた。(ちなみに、わたしは今でもこういう言い方をする人間に対しては反感を覚える。)
 結局、仕事は9ヶ月で辞めることになる。 また、その終わり方も最悪であった。 その年の暮れも押し迫った頃、前々からそりが悪かった店長と口喧嘩し、「今月いっぱいで辞めます!」 と息巻いたのはよかったが、そのあまりに突然の事に、それを知った他の店員からも当然のごとく詰(なじ)られ、それでなおのこと頭に来てしまったわたしは、まさに辞める3日前という日になって、よりによって配達中にバイク事故を起こしてしまったのだった。 幸い大事に至ることはなかったが、わたしがすっかり打ちのめされてしまったことは言うまでもない。

 初めて社会へ出た時がこんな調子だったから、わたしが自分の将来に希望を抱くことなどあり得るはずもなかった。 この事件の後の翌年、都内に新たな部屋を借り、別の仕事に就くことになったが、それでも人間関係等の悩みは一向に解消されることはなかった。 仕事そのものも長続きすることはなく、1〜3ヶ月の単位で職を転々とした。
 このような生活を繰り返していくうち、わたしは次第に日本という国そのものに絶望を感じるようになった。
 時代はまさに軽薄短小の80年代の真っ只中。 上っ面の流行がもてはやされ、真面目に生きる人間は馬鹿にされる。 世の中の人間は 「ネアカ」 と 「ネクラ」 の二種類の人間に分類され、他人を嘲笑し、見下し、欠点をあげつらう人間が人気者となる始末だった。
 「ここには夢も何もない…」―― アルバイト生活の中、こうした思いを募らせていたわたしは、日本という国に見切りを付け、海外での新たな人生の模索を考えるようになった。 こうして、1987年春、念願の海外へ旅立つことになったのだった。 この時、弱冠19歳であった。

 語学留学という名目で旅立った海外での生活は、結局2年近くに及んだ。 最初のアメリカには約1年、フランスには約半年、そしてギリシャには約3ヶ月間滞在した。 その間、思い出らしい思い出は実は何一つ残っていない。 おそらく、人間不信の絶頂期とぶつかってしまったことと、目的らしい目的もないまま、ほとんど感傷旅行のような気分で無為な時間を過ごしたためだったのだろう。 アメリカとフランスの大学で出会った日本からの留学生たちは皆、それぞれ明確な目的を持ち、ある人は観光客気分で、有意義な海外生活を満喫しているように見えた。
 だが、わたしはとてもそこまで楽しめる気分にはなれなかった。 記念写真さえ一枚も撮らなかった。 もちろん海外生活がすべてにわたって灰色だったわけではない。 気心の知れ合う友人もいたし、西洋人の女の子との心ときめく出会いもなかったわけではない。 だが、せっかくそうした出会いを経験するものの、持ち前の(?)人間不信の念が邪魔をして、それらすべてはほんの一瞬の儚い思い出となり、偶然の出会いという幸運を次へのきっかけとすることも出来ず、自ら手放すようなマネばかりしていた。
 何のことはない、日本での生活の延長に過ぎなかったのだ。 一応わたしは語学の能力だけはしっかりと身に付け、何らかの形で現地での就職も視野に入れたプランを描いていたが、留学先でも万事が万事この調子だったので、現地社会で生きていくことに全く自信が持てなかった。

 フランスを去る時には、すでに夢も希望も失いかけていた。 わたしの足が自然にギリシャに向いたのは、その地がわたしの夢と希望の原点だったからである。
 ’88年の秋、わたしはギリシャの地に降り立った。 フランスのニースから夜行列車で出発し、ベネチア、旧ユーゴスラビアを経由し、4泊5日にも亘る長い旅程の末にたどり着いた、夢にまで見た憧れのギリシャ。 しかし、わたしの表情は限りなく暗かった。 アテネの駅に降り立った時にも何ら特別な感慨は湧かなかった。 実際に来てみたギリシャは西洋というよりも、むしろ東洋の雰囲気に近かったことが、少しばかりの気休めになった。

 ギリシャに来る前から、もはやこの地が最後の地であることはある程度覚悟していた。 それでも、ギリシャへ来た、という事実が重要だった。 とにもかくにも、今わたしはギリシャの地に立っている。 それだけでも満足だったのかも知れない。
 アテネ滞在中は古代遺跡はもちろんのこと、何の変哲もない路地裏、港、海岸、丘、公園、博物館、デパートなど、可能な限りの時間を使って歩き、時にはバスや電車を使って遠出し、朝から晩までありとあらゆる所を見て回った。 まるで一つ一つの風景を永遠に消えることのない思い出としてしっかりと頭の中に焼き付けるように…。
 だが、それらの風景もわたしの心を満たしてくれるものではなかった。 ギリシャの神殿は確かに荘厳で美しかった。 だが、当初思い描いていたほどの感動が湧かなかったことも事実だった。 そこには観光客以外はもはや誰もいない。 日本の神社のような巫女も神主もいない、文字通りの廃墟であった。 それはまるでその時のわたしの心象風景をそのまま映し出しているかのようだった…。
 もう溜息はたくさんだった。 季節はもうじき冬に入ろうとしていた。 少年の日からの夢の終わりを感じ取ったわたしは、その年の12月、ついに帰国を決意した。

 わたしが海外への渡航を決意したのは、日本から逃れたいということもあったが、まず第一の理由はやはり家族から逃れたいということがあった。 場合によっては、このまま一生顔を合わせなくてもいいと思った。
 だから帰国したことは家族にも知らせていなかった。 そもそも一度は夢を描いて海外に飛び立った身だ。 今さらおめおめと帰るわけにはいかない。 自分自身に対する恥ずかしさや悔しさややるせなさ、これらの感情の整理が付かぬまま、家族と会うことだけは何としても避けたかったのだ。

 思えば、この海外での2年間、いや、それどころかそれまで生きてきた20年間というもの、思い出らしい思い出が一つもない自分に気づいた。 楽しかった、嬉しかった、悲しかった、怒った、泣いた、学んだ、愛し愛された、闘った、すべてが中途半端であり、うわの空だった。 人生の糧になるような経験は何一つないのが現状だった。
 だから、日本に帰ってきてからの生活も、以前と何ら変わるものではなかった。
 帰国してすぐ、わたしは住み込みで新聞配達の仕事を始めることにした。  が、案の定、人間関係はうまくいかない。 この仕事も長続きしないだろうことは目に見えていた。 この時点でもはや社会に対しては失望、自分の将来については絶望しか感じなかった。

 結局、その仕事は1ヶ月ちょっとで辞めることになった。 そこで、わたしは別にアパートを借りて住まなければならなかった。 幸い部屋はすぐに見つかったが、その際、連帯保証人に親の名前を使ったため、親に居所がばれてしまい、数日後には両親と2年ぶりの対面を果たすことになった。
 ある日の夜、アパートのドアを叩く音がした。 ドアの外からは聞き覚えのある声が響いた。 このアパートに住み始めた時から一抹の不安が頭をよぎっていたが、ついにこの時が来たのだ。 開けてみると、そこには両親の姿が…。 わたしは表情一つ変えることなく、ただ絶句するのみであった。
 気まずい雰囲気での再会であった。 再会の喜びなどどこにもなかった。 わたしにとっては、正直なところ会いたくもない顔であった。
 開口一番、父に突然の帰国の理由を問いただされる。 その時わたしが何と答えたか記憶は定かではない。 ただ、早く出て行ってくれ、そう思いながら話を聞いていたことだけは憶えている。
 結局、一人暮らしは続けることになった。 ただし、経済的な援助は一切ない。 文字通りのゼロからのスタートであった。 これ以降数年間は、家族とは付かず離れずの状態が続くことになる。

 こうした生活は約5〜6年続いた。 その間に自費出版も経験した。 『意志の力が肉体を変える』 と題されたその本は、肉体改造のみならず、進化や生命力についての考察、果ては言葉、精神、商業、権力などの社会構造の問題に至るまで、今のわたしに繋がるすべての思想の萌芽を見て取ることが出来るものである。 今読み返してみるとかなり稚拙な面もあり、当時のわたしの人間不信の念が相当なものだったことを裏付けるような表現もちらほら見受けられるが、「20代前半の頃はこんなことを考えていたのか」 ということが手に取るように分かって面白い。
 ちなみに、当時(’93年)はインターネットなるものはまだ普及していなかったから、自分自身の考えを世間に公表する手段といえば、自費出版くらいしかなかったのだ。 自費出版とはいえ、書籍コードも付いたれっきとした出版物であったが、それはそれ、やはり無名の素人による出版の域を少しも出ず、反響は無きに等しかった。 わたしがすっかり打ちのめされたことはいうまでもない。 こうしたことも、わたしの絶望感により一層拍車を掛けることになった。

 20代も後半になった頃、わたしの家族に対する疑念はついに頂点に達しようとしていた。 それまでも仕事で人間関係等の悩みを抱えていたわたしは、わたしがこうなってしまうのも、元はといえば家族との関係にその原因があるのではないか、という思いを次第に募らせていった。
 そこで、わたしは一大決心をして、思い切って家族との関係を断ち切ることにした。 このままのらりくらり関係を続けていっても結局は恨みを増幅させるだけで、わたしの思い残しの念は一向に晴れそうにもない。 わたしの心はすでにこの時点で、親から何ほどかの愛情や生きる術を得ることをもはや期待してはいなかった。 むしろ、このまま関わっていてはわたしはますます駄目になってしまう。 ならば、いっそのことここで一切の関係を断ち切って、新しい自分を模索する方が良い結果を生むのではないか、という思いが沸き上がってきたのだった。
 わたしはその機会を窺っていた。 そして、その絶好の場面は今から8年前、ある冬の日に訪れた。

 それ以前から臨配の仕事をしていたわたしは、月曜から土曜日は出張、日曜の朝の配達が終わると、その足で自分のアパートに帰省するという生活を送っていた。 そして母もそのことは知っており、ほぼ1ヶ月に1回、母がわたしの部屋を訪れる時はいつも事前に連絡を取り合い、駅で待ち合わせをするというのが常だった。
 しかし、今回は事前に連絡を取ることをあえてしなかった。 実はその前年の暮れから正月を挟んでの3ヶ月間ほど、家族とは一切連絡を断っていた。 しかし、まさにこれこそがわたしの狙いだったのだ。
 そして運命の日、わたしがアパートに着いてみると、どうやら大家さんから鍵を借りたらしい母が、わたしの部屋の中で待っていたのだった。

 「なんで勝手に上がったんだよ!」
 今までさんざ抑圧してきた鬱積を一気に吐き出すがごとく、開口一番、わたしは母をなじった。 なぜわたしがここまで怒るのか訳が分からない様子の母。 母はここ数ヶ月の間、何の音沙汰もないわたしの身を心配して駆けつけたに違いなかった。 その母に対するこのような冷たい仕打ち。 自分がその時どんな卑劣な手段で母を罵倒しているか、自分でも分かっていた。 しかし、わたしはそれでもなお怒りの表情を崩さなかった。 この機を逃したら決別のきっかけは永遠に失われてしまうという思いがあったからだ。
 その後、二人の間に気まずい空気が延々と流れたことは言うまでもない。
 母が帰る時には、もはやわたしは一切口を訊かなかった。 母は自分が勝手に部屋に上がり込んだことをわたしがそこまで怒っているのかと、なおも必死にわたしを取りなそうとしたが、わたしはそれを遮るかのように無言でドアを閉めた。
 「もう二度と関わるまい…。」 わたしは心の中でそう誓ったのだった。

 人生の一番大事な時期に自分の第一希望さえ叶えさせてくれなかった親、人との基本的な関わり方さえ教えてくれなかった親、むしろ、悪い見本としての生き方を示すことで、わたしに誤った価値観を植え付けた親、そうした鬱積した思いを抱えたままズルズルと関わって恨みを増幅させるよりは、これ以上会わないようにした方がいい、というのが当時のわたしが下した結論だった。
 普通なら、親子なんだからここで話し合いをしてお互い理解し合おうとするのが常道だろうと思う。 だが、わたしには最初からそのような考えはなかった。 そもそも話し合って理解し合えるような相手なら、最初からこんなことはしない。 そんなことをしても無駄だということが分かっていたからこのような非常手段に訴えたのだった。
 その後、数年に一回の割合で母が部屋に訪ねてくることがあったが、わたしはあくまで 「帰ってくれ!」 の一点張りだった。 時には顔を合わせることもないまま追い返すことさえあった。 忘れた頃に届く手紙も中身を見ることなくすべて破り捨てていた。 とにかく家族という存在にこれ以上煩わされたくなかったのだ。

 ただし、それは新たな苦しみの始まりでもあった。 家族との関係を断ち切ったのはいいが、それまでも日常生活においてまともな人間関係一つ築けていなかったわたしは、精神的には文字通り、無一文の状態となってしまったからだ。 愛が一切入ってこない状態というのは、まさにこのことを言うのだろう。
 この後しばらくは、人間不信からくる絶望感、沸き上がる孤独感、極端な自己卑下の三重苦に苦しむことになった。

 両親とは結局、28年間関係を保っていたことになるが、その間、わたしは両親からついに 「生き方」 を学ぶことが出来なかった。 本来、人は父親から 「闘い方」 を、母親からは 「愛し愛され方」 を学ぶものだが、それを最後まで受け取ることが出来なかった。
 例えば、わたしには、父の生き方を見て 「この人はこれまでどういう風にして闘ってきたのか、どのようにして自分自身を貫いてきたのか」 ということが、ついぞ見えなかった。 その代わり受け取ったものといえば、世間の常識に従って生きることであり、妥協であり、内弁慶な態度だけであった。
 母についても同様に、「この人は今までどのように人を愛し、人から愛されてきたのか」 ということがついぞ見えなかった。 家事や周囲の人間関係をそつなくこなす一方で、何を考えているのか分からない人、本音がまるで見えない人だった。 父と母の関係についても、「この人たちは本当に愛し合っているのだろうか」 という疑問だけがまとわり付いていた。

 これがもし、暴力は振るう、食事は作らない、お金も一切出さない、夫婦喧嘩が絶えない、というような親だったら、少なくとも反面教師とすることが出来る点で、わたしの性格はもっと分かりやすいものになっていたはずである。 だが、わたしにとって致命傷だったのは、半ば甘やかされ、半ば拒絶されて育ったという点だ。
 前述したように、わたしは決して親から暴力を振るわれたこともない。 食事だってちゃんと作ってもらった。 旅行にも連れて行ってもらった。 留学費用でさえ親に負担してもらったくらいだ。 ならばもっと親に感謝の念の一つも湧いてきても良さそうなものだが、どういうわけか、わたしには 「守られた」 「愛された」 という記憶がないのだ。
 おそらくは、目に見えないほんの些細なところでの不信感・拒絶感が積み重ねられ、それらに対する怒りや不満が意識されない形となって、わたし自身の心の中に巣喰っているのだろう。 あるいは、どうでもいいことについてはいろいろ世話してもらったが、肝心な部分、すなわち 「闘い方」 や 「愛し愛され方」 が全く教えられてこなかったこと、何が一番大切で、何が一番悪いことなのかをその都度身をもって示してくれなかったこと、そのことでわたしが学校生活や社会生活において前後不覚の状況に陥ってしまったことに対する恨み辛みがあるせいであろう。
 一番の悪影響は、たとえそれがあまりにも理不尽なものと分かってはいても、子供にとっては、結局それが考え方の基準になってしまうことである。 言い意味でも悪い意味でも、それ以外に生きる手本が無くなってしまうのだ。 自分で本気で変わろうとする意志がない限り、30代、40代、50代になってもそれは延々と続く。 三つ子の魂百まで、といわれる所以である。

 ただ一つ、わたしの両親に同情すべき点があるとすれば、それは、彼ら自身がその親や周りの人間たちから自己を貫き通すだけのエネルギーをもらえなかった、という点に尽きるだろう。 だからこそ、わたしの両親は自らの本音の部分とうまく対峙することが出来なかったのだし、常識に従って生きる道を選択するしかなかったのだ。
 だが、わたしはどうしてもその欺瞞が許せなかった。 確かに両親は自己を貫き通すパワーがなかったのかも知れないし、そのせいで、自らの人生おいて十分な喜びや愛情が得られなかったのかも知れない。 が、そのような状態を放置したままにしている事実を誤魔化しながら、そのツケをわたしに押しつけるのは、どうしても我慢ならなかった。 世間並みの常識や知識をいくら受け取っても、それだけでは 「生きるためのエネルギー」 にはならないからである。 わたしが欲しかったのは、あくまで己の信念に基づいた 「生きるための知恵」 と 「純粋な愛情」 だったのだ。

 おそらくわたしには、両親の普段の言動からは見えてこない、いや、むしろ彼らがひた隠しにしている心の奥深いところでの 「本音」 がしっかりと受け継がれているのだろう。 両親がいくら表向きには幸せそうなふりをしていても、日々の生活のあちらこちらから感じられる不満や怒りの方がわたしにはよく見えていた。 むしろ、そうした不満や怒りを包み隠さず明かしてくれた方がどれほどわたしにとっては救いになっていたことだろう。
 子供は必ずしも親に完璧な存在であることを望んではいない。 だから無理に親面する必要はないし、大人としての面子にこだわる必要もない。 親の方が己の真実のすべてをさらけ出してこそ、初めて子供は親と真の対話が出来るのであり、親を尊敬しようという意識も芽生えるというものだ。 こうした心の奥深いところで培われる熱き思いこそ、子供に受け継がれていくものなのである。 先祖代々受け継がれるものとは、まさにこの本音の部分なのだ。 建前や常識などというものは子供にとっては何ら生き方の参考にはならないし、生きるパワーにもならない。 したがって、子供には一切受け継がれないのである。
 その人間の生き方や性格、果ては外見に至るまで、すべては先祖代々受け継がれてきた努力の賜であり、闘い取られた結果としてあるものなのだ。 たとえ自分では闘っている意識がないとしても、今のわたしの体も性格も、両親からだけではない、祖父や祖母を含めたはるか昔から連綿と続く意志の結実として存在するのである。
 だが、残念なことに、わたしの両親はむしろその貴重な遺産を食いつぶし、破壊する側に回ってしまった。 というより、親自身が社会の淘汰圧の波にのまれ、右往左往したあげくに、自分たちの信念を貫くのではなく、世間の常識に従って行動するという妥協策を取ったために、本来ならば一番の手本となるはずの親自身の生き方が、わたしにとって何の参考にもならず、両親とわたしとの間で何ら心の絆も形成されることなく、先祖代々からの意志の連鎖が途切れ、結果的に遺産の受け渡しを妨害する形になってしまった。 おかげで、わたしは 「闘い方」 から 「愛し愛され方」 に至るまで、何もかも一から学ばなければならないという事態に陥ってしまったのだ。

 こうして闘い方や愛し愛され方を知らぬまま育った悪影響は現在までも続いている。 闘い方を知らないということは、自己愛の貫き方を知らないということだ。 一方、愛し愛され方を知らないということは、生きるためのエネルギーがもらえないということを意味する。
 そのわたしが変わることができたきっかけは、’97年にこのHPを開設し、更新を重ねる度に徐々に反響の声を頂くようになり、見知らぬ人とのメールのやり取りを通じて人間信頼の情や生き甲斐のようなものを見出したことによるものである。 わたしはインターネットという手段を通じて、ようやく自分の考えを聞いてもらえる場所、自分の本心をさらけ出せる場所、人との心の絆を築ける場所を見つけたのだった。
 自分と同じような考え方や価値観を持つ人たちと心を共有できる場所があることは、たとえそれが仮想空間であっても、人に大いなる安心感を与えるものである。 実際、今のわたしはこのHPを通じて、徐々に愛し愛され方を学びつつあるといってもいい。
 だが、やはりそれだけでは現実世界で生きていくにはあまりにも頼りないし、危なっかしいし、片手落ちである。 人間は生きている限り、愛し愛されることだけではなく、もう一つ大事なことも学ばなければならない。 そう、闘い方、すなわち 「いかにして自己愛を貫くか」 ということである。
 そもそも自己愛などというものは、その都度その都度使い方を見極め、上手に活用していかないと、ふとしたきっかけで誤った方向に向いてしまいがちなのだ。 こんな時、常識などは全く当てにならないものである。 だからこそ、普段から 「自分が自己愛を貫くのを妨げる奴はブッ殺すぞ!」 くらいの強い闘志を持ち、常識に囚われることなく、あくまで己の信念に従って行動することが必要なのだ。

 実際、わたしの日常生活を見渡してみると、自分はなんて弱くなってしまったのだろう、と思われるような場面にいくつも遭遇する。 それは、例えば周囲に対するビクビク感であったり、恐れの感情であった。 仕事場ではもちろんのこと、道ですれ違う他人に対してさえも、何か言いしれぬ圧力のようなものを常に感じているし、何かちょっとしたことでさえも、自分が責められているような、自分がそこに居てはいけないような疎外感が常に付きまとうのだ。
 心のリハビリを始めてすでに2年近く経っている時点で、いまだこのザマである。 わたしの自己破壊病は、わたしが想像している以上に重症であったのだ。
 ひょっとしたら、心のリハビリの過程でわたしが口にしてきた数々の言葉、例えば 「愛に生きる」 だとか、「自分は女っぽい」 というのは、そうした自分自身の臆病さに対する隠れ蓑に過ぎなかったのであり、言い訳に過ぎなかったのではないだろうか。 本当は自分自身を前面に押し出していこうとする闘争心を失っていただけの話ではないだろうか。 本当は自分に敵対するすべての存在を滅ぼしてやりたいくらいの激しい衝動を内に秘めた人間であるにもかかわらず、それを無理に抑えつけてきたからこそ、このような事態に陥ったのではないか。 そうした考えが頭をもたげてきたのだ。

 「外に向かって発散できなくなった攻撃性は必然的に 『内側へ』 と向かう」―― これがいわゆる自己破壊である。 攻撃性という言葉が憚られるのであれば、自己顕示欲、自己拡大欲と言い換えてもいい。 そうした欲求がうまく発散できずに慢性的に内側に向いてしまうと、心と体のバランスが著しく損なわれ、そこで病気が発生することになるのである。
 ちなみに、病気はどの部分に最も表れやすいのかといえば、それは、自分が一番強いと思っている部分、あるいは、自分が一番重大な関心を寄せている部分である。 なぜなら、弱い部分から壊れていくと、結局それが命取りとなって、いきなり死に直結する危険性があるからであり、また、自分が一番関心を持っている部分、すなわち 「よりによって」 という部分が壊れれば、警告としては一番効き目があるからだ。
 例えば、お酒好きなら肝臓から、スポーツ選手なら足腰から、歌手なら喉から、外界に対して自己を閉ざしている人なら目や耳から、日頃から納得行かないことやうまく飲み込めないこと(ストレス)を抱えている人なら消化器系統から、自分が女性であることを恨めしく思っている人なら乳房や子宮から、今の自分の生き方や考え方に不満がある人なら脳から、生きていることそれ自体に不満がある人なら肺や心臓や血液などの生命維持に直接関わる基幹系統から、まず真っ先に壊れていくことになるのである。
 わたしは、美容や外見(特に頭髪)について異常ともいえるほどの関心を持つ人間である。 だからこそ、いったん心と体のバランスが崩れてしまうと、まず真っ先に美容上最も気になる部分である頭髪が破壊されていってしまうのだろう。 そして、これこそがまさにわたしの脱毛症の真の原因なのではないだろうか。 わたしはいつしかそういう結論に達していた。
 病気になるのには必ず理由が存在する。 わけもなくお腹が痛くなったり頭痛がしたりしないのと同様に、わけもなく髪の毛が抜け落ちたりしないものなのだ。 自分の本性、もっと分かりやすく言えば 「本音」 に逆らうようなことばかりしていると、人は必ず病気になるように出来ている。 その意味で、病気とは極めて緩慢なペースで行われる 「自殺行為」 のことなのである。

 とにかく今までのわたしは自分の本心を押し殺し、自分で自分を責めることが多かった。 日々の生活における不満や怒りのはけ口を、本来向けるべき方向ではなく、すべて自分自身に向けていた。 他人との葛藤や争いを怖れるあまり、自分自身の本心はおろか、悦び、怒り、悲しみ、その他ありとあらゆる感情を率直にさらけ出すことにさえ臆病になってしまった。 それらを一言で言えば、「闘いを避けていた」 ということに他ならないのだ。
 そのことに気づいた時、わたしは自分自身の中で怒りの炎がメラメラと湧き上がってきたことを自覚した。 それは今までさんざん自分で自分を抑えつけていたという自分自身へのやるせなさに対する怒りであり、それと同時に、今までの長い人生の中で自分をそのような状況に追い込んできたすべての敵に対する怒りであった。

 昔のわたしにあって、今のわたしに欠けているもの、それは 「闘う気概」 だったのだ!


再び茨の道へ −「愛に生きる」 再考−

 「お前はもっと闘わなくてはならない。」 ―― これが2004年のわたしの新たな課題となった。
 この場合の闘いとは、なにも肩肘張って周りに対して攻撃的になることではない。 そうではなく、日常生活の中のいかなる場面でも自分らしさを見失うことなく、常識や偏見にも惑わされることなく、あくまで自分のやりたいことをやりぬくこと、自己愛をとことんまで貫くこと、すなわち自分らしく生きることである。
 そもそも人は個性を発揮するために生きているのであって、決して常識や周りに合わせるために生きているのではない。 社会の常識に従って生きることは自然の摂理でも何でもないが、自分の心の奥底に潜む本来の欲求、すなわち 「本音」 に従って生きることは、生物としての本来的な行動であり、まさしく自然の摂理そのものだからである。 自分らしく生きることこそ、自然の摂理に適った生き方なのである。

 物事はすべてなるようにしかならない。 すべて自分の望んだ方向へと流れる。 自分の望んだ方向とは、すなわち 「本音」 のことである。 心も体もすべては本音に従うのである。
 自分の感情にはやはり素直に生きなくてはならない。 自分の行動に何らかの義務感や道徳の観念を持ち込んではならない。 好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、それでいいのだ。 たとえそのことによって周りの人間に迷惑をかけても構わない。 そもそもすべての人間から好かれることは不可能、すべての人間と仲良くやっていくことも不可能、いや、嫌われることもまた必要悪の一つである、そうした割り切り方も自己愛を貫くためには必要不可欠なものなのだ。
 人は生きている限り、楽しいことばかりではなく、不愉快な場面にも遭遇するだろう。 周りとの対立も起きてくることもあるだろう。 そこで 「闘う」 ことが必要なのである。

 2004年1月、正月気分も覚めやらぬまま、4日には早くも臨配の仕事を再開する。 場所は小田急沿線の神奈川のK店だ。 午前中に店に入り、入れ替わりでこの店を辞める臨配さんに順路を取ってもらう。 そして、さっそくその日の夕刊から配り始めた。(今度の区域は店から大分離れたところにある。 バイクで15分以上かかるのだ。)

 翌日、朝刊の配達は予想以上に時間がかかってしまった。 4時から配り始めて6時の段階でまだ半分しか配り終わってなかったが、まだ店に入って二日目だから毎度のことだと思い、不着を出さないよう慎重に配っていたら、その区域担当の専業が様子を見に来た。 そして何を言うかと思ったら、いきなり 「遅いですよっ!」 と文句を言われてしまったのだ。
 わたしは 「はっ?!」 と思ってしまった。 今までいろんな店でやってきたが、そんな言われ方をされるのは滅多にない、というか、はるか昔の新聞配達を覚えたての頃以来のことだからだ。 結局、後の半分を手伝ってもらい、8時近くに終了。 終わった後もねちねちと小言を頂戴する羽目になった。
 向こうはこちらが朝刊は今日が初めてだということはお構いなしに、あくまで時間内に配ることにこだわっている。 わたしは不着や誤配を出さないことの方が最優先だと考えていたのだが、 向こうはあくまで 「プロなんだから早く配って当然だろ!」 と言わんばかりの態度に終始。 労(ねぎら)いも同情の言葉も一切なし。 店に帰る時も、土地勘がないわたしを放っておいて、さっさと先に帰ってしまった。 わたしがメチャクチャ気分が悪くなったのはいうまでもない。

 わたしが一番苦手なのは、実にこういう 「相手の気持ちなど一切お構いなし」 というタイプの人間なのだ。 わたしはどんな相手に対しても、少なくとも3日、長くて3ヶ月まではとりあえず様子を見る寛容さを持っているつもりだったが、この時ばかりは即座に 「ダメだこりゃ!」 と思ってしまった。
 もちろん、わたしとて完璧な人間ではないし、欠点や悪い面も当然持ち合わせているから、相手の欠点やわがままも大目に見る用意はいつでもある。 だから、たとえこちらの言い分が正しく、向こうの言い分が間違っている場合でも許してしまうこともある。 だが、逆にこちらの言い分が明らかに間違いで、向こうの言い分が正しくても絶対に許せないこともある。 理屈では納得しても感情が納得しない、という場合だ。 世の中には自分にとってどうしても我慢ならない人間もいるのである。
 新年早々、早くもこのテの人間に出会ってしまったことは、何か因果のようなものさえ感じた。

 前年までは、どの店に入る場合でも、この新しい環境でどれだけの愛を受け取ることが出来るだろうか、ということが常に念頭にあった。 それはこの店に入る時も同じであった。 しかし、今回のこの出来事をきっかけに、そうした半ばお上りさん気分が一気に吹っ飛んでしまった。
 「世の中には自分を愛してくれる人間ばかりではない。 」 ―― 考えてみれば当たり前の事実だが、この日の出来事をきっかけに、それはより強烈に意識されるようになった。
 ちなみに、わたしが人間を判断する際の基準は、周りの評判だとか、礼儀正しさだとか、話の面白さであるとか、仕事をきちんとこなすとか、そんなものはどうでもよい。 むしろ、言葉以外の普段の何気ないしぐさや態度や表情、要するに、その人間から発せられる 「気」 の方が重要なのだ。 別の言葉で言えば 「温度」 と言ってもいい。 その温度が温かく感じられれば、その後もその人と積極的に関わろうと思うし、逆に、冷たく感じられれば、もう二度と関わろうとはしない。
 かの専業からはそうした温かさは一切感じられなかった。 初対面にしてこれだから、その冷たさは相当なものだったのだろう。 わたしはそれ以後、この人とは決して積極的に関わるまいと心に決めた。

 だが、ここで一つの懸念があった。 「そもそも自分は 『愛に生きること』 を誓ったのではないか。 これではまた以前の人間不信だった頃の自分に逆戻りしてしまうのではないか?」 という懸念であった。
 かつてのわたしは 「世の中の誰も彼もが敵に見える」 という状況が長く続いた。 それが数年前からは、そういった人間不信一辺倒の考え方は改められ、徐々に人を信じるようになった。 そして、「世の中には確かに敵もいるが、そういう人間だけではない。 こんな自分でも愛してくれる人は必ずいるものである」 という信念を持つことが出来るようになった。 しかし、だからといって、じゃあ今度は 「世の中のすべての人間を愛することが出来るか」 といえば、それは実際問題としてやはり不可能なのだ。

 世の中にはいろいろなタイプの人間がいる。 こちらが積極的に話しかけたいタイプもいれば、そうでないタイプもいる。 むしろ苦手であったり、嫌悪の念さえ抱かせるタイプの人間もいる。 そうした人たちとうまくやっていくことなど到底不可能である。 では、そうした中でどうやって生きていけばいいのか。
 それはズバリ 「本音で生きる」 ことである。 とことんまで自分らしさを貫くことである。
 一見、「愛に生きる」 というわたしの信条に反するようであるが、決してそうではない。 そもそも心のリハビリの最終目的は 「いかにして自己愛を貫くか」 にあるのであって、決して周りと仲良くやっていくことではないからだ。 ましてや自分自身を削ってまで媚びを売ったり、愛想を振り撒いたりすることではない! この辺の所をしっかりと見極めておかないと、わたしは再び道を誤る危険性があった。

 物事には何でも順番というものがある。 愛の基本はやはり自己愛にあるのだ。 自分をとことんまで愛することが出来ないような人間に、他人を愛せる道理があるわけがない。 肩肘張って周りに対して反抗的になることが無意味であるのと同様に、肩肘張って 「他人を愛さなければ」 としゃかりきになることもまた無意味なことだ。 何事も自分自身に負担となるような無理は禁物なのだ。
 愛に生きようと思い始めた当初、すなわち今から3,4年前には確かにそういう時期もあった。 とにかく他人を傷付けてはいけない、始終明るい表情でいなければならない、挨拶はきちんとする、あるいは相手を嫌な奴だと思っても、そういう感情を押し殺し、ただひたすら協調しよう、と努力したものだった。 だが、やはりそれではいけなかったのだ。

 もちろん、愛に生きることは何よりも大事である。 決して自ら率先して人を傷付けるべきではない。 自分に好意を抱いてくれる人間に対してはなおさらのことだ。 一時的な気まぐれや激情に駆られて平気で人を傷付けるような人間に対しては、誰も愛を注いでくれなくなるのは至極当然である。
 だが、人間は愛に生きるだけではなく、時として闘わなくてはならない。 人間とて生物なのだ。 食糧の確保はもちろんのこと、縄張りの確保、あるいは攻撃と防禦といった、野生動物が常日頃行っているような 「敵を想定とした生き方」 も身に付けていないと、あっという間に死の淵へと追いやられてしまうのである。
 そもそも自分の陣地(居場所)というのは、他人に媚びた場所に出来るのではなく、あくまで自己愛を貫いた場所に出来るのである。 そのためには余計なエネルギーを使うべきではない。 言うまでもないことだが、自分の嫌いな人間にまで余計な神経を使っていると、他の人間、特に自分に愛を注いでくれる人間に対する配慮が疎かになってしまうのだ。 そもそも自分を切り売りして周りに媚びを売ってばかりいるような人間に対しては、人は積極的に愛を注ごうとはしない。 注いだとしても、それはほんの僅かの、しかも極めて質の悪い愛である。 人が本物の愛を注ぐのは、あくまで自分に正直に生きる人間、裏表のない人間、己の信念を貫いている人間に対してだけである。
 以前のわたしはこのことが分からなかった。 いや、感覚的には分かっていたはずなのだが、勇気が無くて実行するのをためらっていた。 あえて非情なまでの己の純粋さと対面するのを避けていただけに過ぎなかったのだ。

 今までのわたしはむしろ人から嫌われないように努力していることが多かった。 自分に怒りをぶつけてくる人間の方にばかり気を奪われて、肝心の自分に愛を与えてくれる人間の心がよく見えていなかった。 嫌いな人からも好かれようと一生懸命無駄な努力を重ねていた。 誰か一人から嫌われるだけで、その場にいる全員から嫌われるような錯覚を覚えていた。 そうした被害妄想のおかげで、他人の怒りに敏感な体質になり、肝心の愛が受け取れない体質になっていたのだ。
 だが、今は違う。
 「世の中には怒りをぶつけてくる人間ばかりではない。 自分を愛してくれる人間は必ずいるものである」 ―― 今のわたしにはそうした確固たる自信がある。 そうした自信が 「自分は滅多なことをしても嫌われないんだ」 「自分は愛されるに値する人間なんだ」 という確信を生んだ。 こうした確信は、自己愛を貫く上での必要前提条件となるものである。 それを得ることができたのも、このHPを通じて、皆さんからたくさんの愛を得られたおかげである。 そうして今では、むしろ自分に無条件に好意を寄せてくれる人間の方がよく見えるようになった。 逆に、自分に平気で怒りをぶつけてくる人間など、まともに相手にせず悠然と構えていればいい、という余裕すら持つことが出来るようになった。 それで人間関係に何ら支障が出ることはないのだ。
 「嫌いな人間からも好かれようとする無駄な努力は一切止めること」 ──これも自己愛を貫く上では大事なことである。 ここへきて、わたしはようやく心のリハビリの第一段階をクリアしたのだった。

 神奈川のK店は結局、1ヶ月ちょっとで上がることになった。 入った当初は嫌な気分にさせられたこの店だったが、もちろん悪い人ばかりではなかった。 新しく区域担当になった別の専業さんは優しい人だった。 また、こちらが挨拶しなくても向こうから積極的に挨拶してくれる若い店員さんもいた。 ちなみに、かの専業は途中で店を辞めていった。 どんな理由かは知らない。 案外他の店員さんたちともうまくいってなかったのだろうか、と勘ぐってしまった。
 わたしが辞める間際、一人の店員さんが 「寂しくなるね」 と声を掛けてくれた。 今まで軽い挨拶をするだけの間柄だったが、1ヶ月ほどしかいなかったわたしにそのような言葉を掛けてくれたことに嬉しさでいっぱいになった。 何気ない言葉であるが、去りゆく者にとってはやはり心にじーんと来る言葉である。

 2月某日、早くも次の仕事の依頼が舞い込んできた。 今度は、以前も入ったことのある千葉のK店だ。
 去年までは、どこの店に入る時でも、「今度はどれだけの愛を受け取ることが出来るだろうか」 という思いがまずあった。 しかし、それが今年に入ってから早々にああいう事件があったおかげで、「今度はどんな闘いが待ち受けているのだろうか」 という臨戦態勢にいつの間にか変わっていた。 今から行く店も以前のようなお上りさん気分で行くわけにはいかなかった。
 もちろん、愛を受け取ることを期待しないわけではない。 だが、いつまでも 「愛が欲しい」 だけでは、まだまだ赤ん坊の状態でしかない。 やはり、そこからさらに一歩進んで、あくまで自己を貫くこと、そのためには闘いも辞さない、という強い覚悟がどうしても必要となってくるのである。 わたしはそろそろ乳児の段階から幼児の段階へと進まなければならなかったのだ。
 わたしは改めて気を引き締め、現地へ向かった。

 午前11時、現地到着。 さっそく店長と打ち合わせ。 配る区域は3区域で、朝刊はたっぷり3時間以上かかるとのこと。 それを聞いた途端、「ひえ〜っ!」 と思ったが、三日ぐらいかけてゆっくり憶えてくれればいいとのことで、ひとまずほっとする。
 翌朝、店に出向く。 さっそく顔なじみの面々がいたので再会の挨拶。 その中にはT君もいた。 相変わらずの好青年だった、いや、のはずだった。 だが、これ以降数ヶ月間この店に滞在することになり、顔を合わせる回数が増えるにつれて、次第に彼とそりが合わなくなってしまうことになろうとは、この時は知るよしもなかった。

 前回、この店に来た時はわずか1ヶ月足らずの滞在だった。 そのせいで、店にいる一人一人の性格の細かい部分まで見えていなかったのかも知れない。 実際、前回来た時も、T君と顔を合わせるのも朝刊時のほんの一瞬だけで、その時、いつも彼は挨拶をきちっとするので、わたしは好印象を持っていたのだ。
 今回も前回来た時と同様、彼は挨拶をきちっとする点では変わりなかった。 ただ、この店に入って日を重ね、彼と顔を会わせる機会も徐々に増えていくにつれて、どうもそれ以上の仲に発展するような気配は一向に見られなかった。 いや、むしろ顔を合わせた時に何を話していいのか分からない、という緊張感すら覚えるようになった。
 この緊張感はわたしにとってくせ者であった。 なぜなら、人間関係は本来、会えば会うほど安心感が得られるものでなければならないからだ。 ところが、彼と顔を会わせる度毎に、当初の好印象とはうって変わって、なぜかこの緊張感だけが増していくことになった。

 それが決定的となったのは、店に入って1週間くらい経ったある日のことだった。 夕刊配達の時、T君と同時に店に着いたことがあった。 二人とも同時にバイクを降りたのだが、彼がフルフェイスのヘルメットをしていたこともあり、わたしはつい声を掛けるのをためらって店に先に入ってしまった。 すると、わたしの後ろからはこれ見よがしの咳払いが聞こえたのだ。 後から店に入ってきた彼の顔も態度も、明らかに怒っていた。
 わたしは愕然となってしまった。 彼がそんなに怒りっぽい人間だとは思わなかったからだ。 もっとも、彼の流儀では 「挨拶しない」 というのは許し難い行為なのだろう。 だが、わたしはもともと人見知りする質(たち)で、挨拶もあまり得意な方ではないし、どちらかといえば、挨拶抜きのざっくばらんな関係を好む人間である。 そこには先輩後輩、目上目下、老若などの上下関係もない。 本当に気の合う者同士なら、挨拶するしないに関係なくうまくやっていけるはずであり、挨拶しないからといって別に嫌いなわけじゃない、というのがわたしの流儀なのだ。 ところが、世の中は、どうもそうした考え方が通用しない場面の方が多いようだ。

 わたしが人間関係の煩わしさを感じるのは、まさにこんな時なのだ。 わたしが自分の素直な感情にまかせて行動すると、必ず周囲に何かしらの反発が起こる。(思えば今までこんな経験を何度繰り返してきたことだろう!) この時から、わたしの彼に対する感情計の針は、それまでの好印象とはうって変わって、一気にマイナスに振れてしまった。
 こうなると、わたしはもう駄目なのだ。 この点にかけては、わたしの思考回路は完全に 「女性が男性を選ぶ際のそれ」 である。 つまり、一人の人間に対する評価が○か×しかないのである。 △はあり得ない。 自分を良い気分にさせるのであれば、その人は 「良い人」 なのであり、逆に悪い気分にさせるのであれば、その人は 「悪い人」 なのだ。 つまり、「あの人には悪い面もあるが良い面もある」 という柔軟な発想が出来ないのである。 そして、いったんこうした判断に傾いてしまうと、滅多なことでは覆ることはない。 覆る場合でも相当な時間がかかってしまうのである。
 もちろん、こうした女性的発想はわたしにとっては両刃の剣である。 心の純粋さを保てる反面、傷つく要素も大きい。 その単純明快な割り切り方ゆえに、自分に好意を寄せてくれる人間をも傷付けてしまう面もあるし、逆に、自分が信じていた人間から裏切られると、立ち直れないくらいのダメージを受けてしまうのだ。

 こうした場面に遭遇すると、以前のわたしはすぐに自分の方から身を引く道を選んできた。 何かちょっとでも嫌なことがあると、すぐに 「ここにもやはり自分の居場所はない…」 と勝手に思い込み、しまいにやる気をなくし、また別の仕事に就くというのが常だった。 普通の人にとってみれば、「えっ、そんなことで?!」 と思われるようなほんの些細なトラブルでもわたしには莫大な苦痛となってしまう。 何しろ人を見る時の基本的な姿勢が 「コイツも自分を傷付けるのでは…」 という自分なのだ。 だから他人のやることなすことすべて必要以上に悪意に取ってしまう。 どうしても我慢できない時には、そのまま給料も受け取らず次の日にはトンズラすることも多々あった。
 そんな経験を繰り返す中、いつまでもこんな生活を続けるわけにはいかないと、30代に入った頃から自分の素直な感情をひたすら押し殺し、相手から怒りをぶつけられる度に、逆に嫌われまいとする努力を重ねるようになった。 しかし、そうした努力が実を結んだ試しはなかった。 むしろ、そのような妥協を繰り返す度に、強烈な自己嫌悪感に苛まれたものだった。
 嫌われまいという動機から行われる行為は、決して自分にはプラスにはならないのだ。 嫌われないかも知れないが、好かれることもない。 何ら悦びが生まれない関係が延々と続くだけである。
 それだけは絶対に避けなければならなかった。 以前のような自分で自分を押し殺すような状態に逆戻りしてはならなかったのである。

 今年に入って、二つの店でたて続けにこのようなことが起こったことで、わたしは神から試練を与えられているような気がした。 その時に助けになったのが、岩月教授の次の言葉だった。

 「人は自分が心から好きだと思える人としか信頼関係を結べない」

 これはわたしが岩月理論から学んだ金科玉条の一つである。
 だからこそ、ここで相手に媚びたり妥協したりしていては、また以前の自分に逆戻りしてしまう、ということを、この時ひしひしと感じていた。 特に、怒りをぶつけてくる人間に対しては、断固として怯んではならなかったのだ。
 「たとえ相手から怒りをぶつけられても、ビクともしない強さを身に付けなければならない。 たとえそのことによって嫌われても構わない。 いや、嫌われることもまた修行のうちである。」
 わたしは自分にそう言い聞かせた。 わたしはもはや周りに対して一切の妥協をしたくなかった。 逆に、もっともっと 「好き」 と 「嫌い」 の感覚を研ぎ澄ますこと、決して曖昧にしないこと、ある特定のタイプの人物に対する怖れや反発の感情なども、生物としての正当な反応として、それに忠実に従うことにした。 こういう人間もいるのだぞ、ということを相手に知らしめてやるくらいの強い態度で臨むようにしたのだ。
 人は何回か接すれば、その人間と深い仲になれるかどうかのおおよその判断がつく。 確かにT君は仕事ぶりは真面目だし、挨拶もきちんとする。 しかし、T君とはそれ以上の関係に発展する気配は見られなかった。 どんなに顔を合わせる機会が増えても、こちらから積極的に話しかける気にもなれなかったし、むしろ、日を重ねる毎に、T君とは性格的に相容れない面が見えるようになってきてしまったのだ。

 ともかくも、わたしはそれ以降、彼とは積極的に関わることはなかった。 挨拶も表面的なものに留まった。 それからもお互い挨拶することはあったし、時には軽く言葉を交わすこともあったが、だからといって、それ以上の仲になろうという意欲は湧かなかった。
 もちろん、人間関係とは決して深い仲になることだけがすべてではないだろう。 実際、日常の場面ではむしろそうした挨拶だけの軽い関係が主流であり、すべてがすべて濃密な関係なわけではないからだ。
 しかし、わたしにとっては 「上昇しない関係」 というのは、すべて 「下降していく関係」 なのだ。 「普通の関係」 ですら、わたしにとってはむしろ 「悪い関係」 の範疇に入る。 それは親子であろうと、兄弟であろうと、友人であろうと、恋人であろうと、師弟関係であろうと、何ら変わりはない。 だからこそ型通りの素っ気ない関係には安住できないし、満足できない。 むしろ苦痛となってしまうのだ。
 わたしは時々、日常生活においても仕事場においても、可もなく不可もなく周りとうまくやっている自分、好きでもない人とダラダラと下らない関係を続けている自分に嫌気が差すことがある。 本当に自分らしさを貫けているのだろうか、またしても間違った方向へ向かってやしないか、という不安が常に付きまとうのだ。 こんなところにも、わたしが社会にうまく適応できない理由があるのだろう。

 3月にはその店を上がる予定が、結局延び延びになって、7月までやることになった。 しかし、ついにT君とは親密になることはなかった。 最後の方では、むしろ視線を合わせることさえなくなってしまった。 早朝と夕方の2回しか顔を合わさないとはいえ、正直言って、こういう関係は苦痛以外の何物でもなかった。 時には 「愛に生きることを標榜しておきながら、お前はなんて卑怯者なんだ!」 と心の中で自分を罵倒することもしばしばだった。 しかし、それでもわたしはあくまで自分の感情に素直になることに努めた。
 何事も 「心からの〜」 でなければすべて嘘だと思ったのだ。 自己愛をとことんまで貫くためには、愛想笑い、空挨拶など、すべての 「演技」 の類をぶった切ることが必要だった。 そんなことをすれば相手からますます嫌われ、疎んぜられることは目に見えていたが、わたしはあくまで自己を極めたいと思った。 なぜなら、本能が体が 「それをやれ!」 と命じていたからである。

 基本的に 「感覚に従って」 行った行為はすべて正しい。 別の言葉で言えば 「本音」 である。 それは本能の叫びであり、生物としての正当な反応なのだ。 好き嫌いはもちろん、攻撃と防禦、協同と離反など、すべての事の成り行きの底流にあるのは、ずばりこの本音の部分から来るストレートな感情によるものなのだ。
 わたしだって生身の人間だし、好き嫌いの感情だってある。 驚喜することもあれば憤慨することもある。 そんな時、本能が 「こうせよ!」 と命じているのに、それを理性によってムリにひた隠しにして抑えつけてしまうと、その方向性はどうしても内向きにならざるを得ない。 つまり、自分の本当の感情が表に出てこなくなってしまうのだ。
 自分は決して良い人ではないし、聖人君子でもない。 むしろ積極的に悪を行うこともある人間であること、いや、それどころかその心の奥深いところでは人類の半分を敵に回しかねないほどの破壊的衝動を持った人間であること、これら自分自身の中に存在する根源的な悪を素直に認めることは重要であった。 これを無理に抑圧してしまうと、「いい人」 になってしまう(演じてしまう)危険性があるからだ。

 わたしは決して 「いい人」 になるつもりはなかった。 人間やはり 「いい人」 になったら終わりなのだ。 いい人とは、本音の部分をまるで持たない、喜怒哀楽の感情も持たない、ただひたすら自分を殺して常識に従って生きる、のっぺりとした顔を持つ人間のことである。
 人間生きている限り、何かしらの衝突はあって当たり前。 お互いがお互いの利害を主張し合うのも当たり前。 そこで人はその都度勝負しなければならない。 自己愛を貫いたことで周りに反発が起きるようなら、そこで対決せねばならない。 これがいわゆる 「攻めの姿勢」 というものである。 これはなにも取っ組み合いの喧嘩をするということではない。 そうではなく、あくまで自分らしさを貫くということである。 これこそがまさに 「闘う気概」 に他ならないのだ。

 千葉のK店での経験もまた、これから生きていく上で、貴重な経験であった。 確かに後味の悪い面もあったが、こんなのはまだ序の口であろう。
 そもそも、こんな経験は今までの人生の中で何度も繰り返し経験してきたはずだ。 今まではそうした人間関係の煩わしさから逃げることだけ考えてきたが、これからはそうはいかない。 真正面からぶつかっていかなければならないのだ。 いい加減な気持ちは許されない。 すべてが真剣勝負。 負けたらすべてが終わりぐらいの気持ちで生きていかなければならないのである。
 なぜなら、これからは今までの人生で一度も経験したことがない、心の大血戦とも言うべき壮絶な闘いが待ち受けているかも知れないのだから…。


わたしは何者であるか

 今回のこのコラムを見て、わたしのあまりの豹変ぶりに驚かれた方もいるかも知れない。 また、「愛に生きる」 というかねてからの信条を捨ててしまったのか、と思われた方もいたかも知れない。 あるいはあまりの論理の飛躍、自己中心的な身勝手さに、驚きを通り越して呆れ返ってしまった方もいるかも知れない。
 だが、これだけはぜひ分かって欲しい。 これはわたしの今までの生き方と決して矛盾するものではない、ということを。

 今でもわたしは 「自分の生き方は間違っていないだろうか」 「自分は本当に自己愛を貫けているのだろうか」 と自問自答することがある。 だからこそ、ここでもう一度過去を振り返り、自分自身の生き方の問題点を探り、改めて 「自分は何者であるか」 を吟味する必要があったのだ。
 そこで得られた結論は、人と接し、愛し愛されることを学び、どんな時も自分の素直な感情を貫き通し、それを邪魔する敵と闘わなくてはならない、ということだった。
 なんということだろう! 今まで36年間も生きてきて、ようやくたどり着いた人生の結論が、自分の感情に忠実に生きること、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、嬉しい時に喜び、笑いたい時に笑い、悲しい時に悲しみ、泣きたい時に泣き、怒るべき時に怒ること、愛し愛されること、敵と闘うこと、こんな単純なものだったとは! だが、それは生きとし生けるものとして決して忘れてはいけないものだったのだ!

 わたしは今、人生をもう一度やり直している。 やはり、自分は一度死ぬ運命にあったのだろう。 新しい自分になるためには、人は一度死ななければならないのだ。 今までの自分は自分ではなかった。 物理的には生きていても、精神的には死んでいたも同然だった。 だからこそ、自分はあの時点(30代半ば)で死んだのだった。 その程度のエネルギーしかなかったのである。
 実際、人はこうした精神的な生まれ変わり、すなわち誕生→成長→成熟→失敗・挫折→死→生まれ変わり、を永遠に繰り返していくのではないだろうか。 そして、病気や外見上の変化とは、そうした生まれ変わりの時期が来たことを知らせてくれる 「神からのお告げ」 なのではないだろうか。 なぜなら、そうでもしない限り、家族との長い暮らしの中で培われた性格が容易に変えられるものではないことを、神はよく御存知だからである。
 それを神からの警告として謙虚に受け止めるのか、あるいは老化だから仕方がないといって諦めてしまうのか、そこでその人間の真の強さが問われることになる。 もし、ここで自分自身の力で生まれ変わる勇気や意志が持てなくなった時、そこで初めて本当の意味での死が訪れることになるのだろう。

 わたしは今、ようやく乳児から幼児への段階へ入りつつある。 その過程では、かつて徹底的に避け、遠ざけてきたはずの 「懐かしい痛み」 を再び経験することもあるだろう。 人は生きている限り、同じような経験を何度も繰り返す生き物だからだ。
 これからはそれら一つ一つと真正面から対峙し、丹念に克服していかない限り、一歩も前には進めない。 心の面ではようやく闘う意志が回復し始めたわたしだが、体の方の戦闘態勢がいまだ完全に整っていない現状を考えれば、わたしにとって本当の意味での自我が芽生えるのはおそらくまだまだ先のことだろう。
 実際、それが可能となるまでには、まだまだ愛が足りない気がするのだ。 だからこそ、今は愛を溜め込むことに専念し、新たなる闘いのための力を蓄えていかなくてはならない。 家族とは不幸なことに縁を切ってしまったわたしだが、愛とは親から与えられるものがすべてではない。 愛が足りなかったら、家族以外の人間から愛をもらえばよい。 これもまた、わたしが岩月理論から学んだ極意の一つである。

 だが、他人から愛を受け取ればいいと口で言うのは容易いことだが、実際には大変難しいことだ。 並大抵の努力ではまず無理である。 ましてや、今まで人間不信の目で周りを見てきた者にとってはなおさらのことだ。
 だからこそあらん限りの力と知恵を振り絞り、自己を鍛錬し、愛し愛されることを学び、時には怒りをもって自己の信念を貫き通さなければならないのだ。 これもまた闘いの一種とも言うべきものなのだろう。 愛は生きているだけで自動的に手に入るわけではないのだ。 あくまで 「闘い取るもの」 なのである。
 ある者は闘いに疲れ、またある者はささやかな愛を得た時点で、それ以上のものを求めようとはしなくなるところだが、わたしにはどうしても諦めることが出来ない。 諦めたらその時点ですべてが終わってしまうのだ。
 夢を失った男、闘いを忘れた男ほど醜いものはない。 男はやはり 「戦士」 として生きなければならないのである。 それも飛びきり上等の夢を追いかける美しき戦士として! これこそはまさしく神が 「男という性」 に与えたもうた使命なのだ。 そして、わたしが戦士として生きていくためには、どうしてもより一層純度の高い愛と熱い励ましと力強い応援が必要なのである。

 「それにしてもお前って奴は……これほど多くの人々から有り余るほどの愛をもらってもまだ満足しないというのか!」 ―― その通りだ。

 実際、わたしは底知れぬ愛の欲求を持つ人間なのだ。 普通の人ならとうに満足しているだけの量の愛情をもらっても、「まだ足りない!」 と思ってしまう。 七つの大海を汲み上げてもまだ足りないくらいの量の愛情でないと満足できないのだ。
 そして、相手が愛を与えてくれればくれるほど、その相手に対する要求も苛烈なものにならざるを得ない。 それはたとえ身内であろうとも変わりはない。 生半可な愛では満足できないのだ。 さらにそれ以上のものを求めてしまう。 現実にはそんな神のごとき人間などいやしないのに、つい相手に純粋さ、完璧さを求めてしまう。 ちょっとでも 「混じり気」 があるともう駄目なのだ。 当然そんなわたしの底無しの要求を受け止めてくれるような人間など、日常生活においては皆無に等しい。 そして挫折……。 この繰り返しだ。

 だが、今ではそんなわたしの性質も愛おしいものと思っている。 これからは、あくなき愛を求めたがる自分、好きと嫌いがはっきりしている自分、人見知りする自分、いつまでも少年の日の夢を追い続ける自分、大人になることが嫌な自分、自分だけが周りと異質と思っている自分、これらすべてをかけがえのない自分自身の 「本質」 として末永く愛してやろうと心に決めたのだ。 これだけは絶対に妥協するわけにはいかないし、譲り渡すわけにはいかないのだ。
 なぜなら、それこそがまさしく、わたしをわたしたらしめているまさに当のものなのだから。

 人はそれを単なるわがままというかも知れない。 場合によっては、そのことによって他人を傷付けてしまうことすらあるかも知れない。 あるいは、以前のような 「愛の受け取れない自分」 に再び逆戻りしてしまうかも知れない。 だが、この探求を止めたらわたしは終わりだ。 決して捨ててはならぬものなのだ。
 「愛に生きる」 ことを公言しておきながら、それをすべてひっくり返してしまうような、ある意味ではこのHPを見てくださっている皆さんに対する裏切り行為であるかのような罪悪感に苛まれたりすることもある。 実際、今年に入ってからも、そういう場面に何回も出くわした。 何の落ち度もない人に対してまで不快感を与えてしまったこともあるかも知れない。 もしそうであるなら、わたしが修行中の身であることに免じて、どうか許して欲しい。

 自分はもともと自分に嘘を付けない体なのだ。 どんなにうまく周りに適応しているように見えても、自分に嘘を付き続けている限り、必ずボロが出てしまう。 しかも、ボロが出た時にはすでに自分を取り返しのつかない状況にまで追い込んでいる。 身も心もボロボロになり、崖っぷちに立たされて、初めて自分の置かれている危機的状況に気づく…今までの人生の中で何度そのような場面に遭遇したことだろう!
 だが、それを救ってくれたのは、いつでも人からの愛であった。 これだけは変わらない真実である。 この愛がなかったら、いかなる危機的な状況をも乗り越えることが出来なかったし、あるいはとっくの昔に死んでいたことだろう。
 もちろん今でも苦しい生活に変わりはない。 が、毎日少しずつ愛はもらっている。 あとはその使い道を誤らないように、自己愛を押し進めていくのみだ。 もはや誰にも邪魔させない。 第二の人生が今スタートする。

最後に、
わたしに再び闘う勇気を与えてくださったすべての人々に深く感謝します。
どうもありがとう。


『かんたん!筋肉緊張ダイエット』 管理人:Tarchan




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